*01
臨也さんが記憶を失くしたという。頭部への強い衝撃、という笑ってしまうくらい単純な理由で、臨也さんは記憶喪失に陥った。
僕に医学の知識はない。だから治療にあたった新羅さんの説明も、最初は正直、よくわからなかった。僕がひたすらに混乱していたということもあるけど。
記憶を失った臨也さんは、新羅さんとセルティさんのマンションに収容され、そこで治療が施された。
そもそも、いつも臨也さんが怪我をしたりした時にはセルティさんが回収して、新羅さんが治療するというパターンがあった。それに則って、いつも通りにセルティさんが気を失った臨也さんをバイクで運び、新羅さんが看病して、目が覚めた時、臨也さんが記憶を失っているということがわかったらしい。
僕は、臨也さんとは、周りに知らせてはいないけど、一応恋人関係にあった。けれど、僕が臨也さんがそんな状態であると知ったのは今日で、彼が記憶を失くしてから一週間も経った頃だった。
それまで電話もメールも一週間放って置かれるのなんてザラだったから、僕は何にも考えずに、平凡に過ごしていた。
メールをしても返事がなくて、電話をしても留守番電話の無機質な声しか返ってこない。でもまた仕事が暇になってきたら、思い出したように電話でもして甘えた声で僕を呼ぶんだろう、とたかをくくっていた。何の根拠もなく、期待していた。
今日、部屋の掃除をしている時に、たまたま僕の部屋に彼の携帯電話が一台、置き忘れているのを見つけて、それを新宿の事務所まで届けに行って、そこで波江さんに会った。
「折原臨也なら頭打って闇医者のところに入院中よ」
そう吐き捨てるように告げられて、僕はその足で、セルティさんと新羅さんの家に向かった。アポ無しだったから、新羅さんは大層驚いていたけど、誰よりも僕が驚いていた。
「臨也さんは」
「どうして君が」
「無事なんですか?」
「臨也の知り合いってことは知ってるけど」
「頭打ったって、入院って」
「セルティにも他言無用にしてるのに」
驚きのあまりの噛みあわない会話を経て、今に至る。僕が臨也さんの恋人であるということを明かすと、新羅さんはまた大層驚いていて、何か言いたそうだった。けれどそこはやはりお医者さんで、まず説明するね、と臨也さんの現状を話してくれた。
新羅さんの話を聞いて、なんとなく理解できたことは、臨也さんは頭部への衝撃を受けてしばらくは自失状態だったことと、その後意識を取り戻すに従って少しずつ、ドアの開け方や、日本語などの基本的な記憶は思い出してきたことだ。
「会話もできるくらいに回復してるんだよ。一時は人事不省だったけれど、命に別状はないし」
「そうですか…」
「この調子で行くと、多分、お金の概念なんかも思い出していくんじゃないかな。完全にまっさらってわけじゃなくて、回復するにつれて、思い出すことは思い出していくようだよ」
新羅さんの言葉を受けて、僕は顔を上げる。思い出す、ということは元通りになる、と期待していいんだろうか。僕のそんな感情を汲み取った新羅さんが、少し言葉を選ぶ。
「ただ、人間関係なんかはまだ、思い出す気配はないんだ。私のことも覚えてないし、セルティも、静雄も覚えてない」
「僕のことも?」
「さぁ…確かめてみるかい?」
「っい、いいんですか?」
思わず身を乗り出す僕に、新羅さんは苦笑して、話してくれた。本当は怪我したところが頭ってこともあって、安静にして欲しいんだけど、臨也さんは勝手に起き上がって色々しているらしい。
さらに言葉を思い出してからは、本や雑誌を読み散らかして治療どころではないという。なんだか、臨也さんらしい。僕はそこでようやく、小さく笑えることができた。
「帝人君も、一目見て、あいつが元気だってことが解れば、安心できるだろう?ただ、覚悟はして欲しいんだ」
「覚悟、ですか?」
「あいつは、記憶がない。だから、以前の臨也そのままを求めたら、きっと君はショックを受けると思うんだよ」
新羅さんの、優しく諭すような声が降ってくる。新羅さんも記憶を失くした臨也さんにいろいろとショックを受けたのかもしれない。
実際に、臨也さんがどんな状況なのか僕は知らない。何も覚えてない臨也さんに何を言われるかもわからない。でも、とにかく臨也さんに会えるんだ。それなら会うしかないじゃないか。それにすぐ、思い出してくれるかもしれない。僕は期待していた。
「会わせてください」
僕が頼むと、新羅さんはやれやれと肩をすくめた。そして、臨也の奴は幸せ者だな、こんな恋人がいて。まぁセルティがいる僕の幸せさには敵わないけど、といつもと同じような明るい声で、話してくれた。
*02
新羅さんのマンションの空き部屋を使った病室に、臨也さんは居た。枕をクッションに、ベッドの上で上半身だけを起こして寝ていた。ベッドの横に点滴のスタンドが立っていて、腕からはチューブが伸びていた。そんな状況で腕が使いにくそうなのに、手元には本や、雑誌が何冊も開かれている。
臨也さんは、新羅さんと共にドアから入ってきた僕を、じっと見ていた。僕もつい、臨也さんをじっと見てしまう。臨也さんは白い入院着を着ていて、この人白い服あんまり似合わないなぁ、と僕はぼんやり思った。
「臨也、この子が竜ヶ峰帝人君」
新羅さんが、僕を臨也さんに紹介する。臨也さんは新羅さんを一度見て、それから僕に視線を戻した。
「岸谷さん、この子は人間?」
「…え?」
新羅さんを「岸谷さん」と呼んだのも驚いたけれど、それ以上に質問の意味がわからなかった。僕はつい新羅さんに助けを求めて視線を送る。新羅さんは不思議そうにしながら、ああ、と手を打つ。
「臨也、セルティみたいなのはそうそう居ないから。この子は正真正銘、君と同じ、れっきとした人間だよ」
「そうなんだ。また首とか取れたらどうしようかと思った」
臨也さんが笑う。臨也さんは、まだ新羅さんとセルティさんとしか顔をあわせてないらしい。臨也さんの口ぶりからすると、セルティさんの正体も明かしてあるようだ。セルティさんは自宅ではあのフルフェイスメットを取った状態で生活しているからということもあるだろう。
臨也さんはまた、僕をじいっと見た。僕は、首の無いセルティさんを見たとき、臨也さんはどんな反応をしたんだろう、と想像しながら、視線を返す。すると臨也さんは、少し笑って、持っていた本を閉じた。臨也さんの細い指の間に、「池袋、逆襲」のタイトルが見える。
「人間なんだ?」
「え…あ、はい」
「じゃあ、仲良くしよう。俺はオリハライザヤって言うらしいよ。ああ、知ってるか」
まだ慣れていない言葉を言うみたいに、まるで外国の言葉を話すみたいに、臨也さんは自分の名前を名乗った。