*01

その日、臨也さんはコートを着ていなかった。昨日は雪が降ったばかりの冬の東京には薄着すぎる格好で、僕のアパートまでやってきた。肩に薄い鞄をかけていて、手の甲や頬に擦り傷があった。わき腹も痛むのか、手で押さえていた。

「匿ってくれない?」

臨也さんはそう言って、ぼろぼろな姿なくせに、いつも通りの、読めない笑顔を見せた。



とりあえず、家にある程度の包帯や消毒液で、怪我の処置をした。消毒中、臨也さんは広くも無い四畳半の部屋をきょろきょろと見渡す。以前の事件の際、一度足を踏み入れているはずなのに何が珍しいんだろう。

臨也さんは、わき腹を酷く打っていて、骨は折れていないようだけど青く内出血していた。痛々しいそれに僕が驚くと、臨也さんは苦笑いする。久しぶりにしくじっちゃったよ、と、湿布を貼っている時に漏らした。

どう見ても、何か危険なことに首を突っ込んで、痛い目をみました、という姿だった。危険なことに首を突っ込むのはいつものことだろうけど、臨也さんのこういう姿は珍しい。静雄さんに攻撃される時も、大体は避けたり逃げたりできているし。

(この人、案外普通の人なのかも)

湿布を貼られた細い腰を見やり、僕に小さな同情心が芽生えた。そうでなくても、臨也さんには以前からチャットをしたり、情報をもらったり、協力してもらっていた。

この人を匿う、というのがどのくらい危険なことなのかは、親友の証言やこの人の評判を考えればわかる。でも、僕はこの人を助けてあげようと思った。それは、単なる親切心でだ。

「臨也さん、お腹すいていますか?」
「ああ、うん」
「あ、エビマヨおにぎりしか、無いんですけど…」
「いただくよ」

冷蔵庫の中がそれほど賑わっているわけでもないし、自分はそこまで料理が得意というわけでもないので、夕飯の残りをふるまう。そういえばこの人の食べ物の好き嫌いなんて全く知らない。イメージではネギが嫌いそう。あと、大トロは好きそう。

部屋の真ん中にある机に、熱いお茶とおにぎりを並べる。臨也さんはその前に座って、それをじっと見て、それから向かい側に座る僕を見た。

「聞かないの?」
「え?」
「何があったんですか?とか、聞かないのかなって」
「あっ、…え、じゃあ何があったんですか?」
「いや、言えないけど」
「(ええー…)」

臨也さんが、机の上のおにぎりを手に取る。一口食べたところで止まった。おいしくなかったのかな、と不安になって覗き込むと、口元を押さえて顔をゆがめていた。

「ど、どうしました?」
「…ごめん、口の中も切ってて、噛むと痛いんだ」

僕は、おかゆとかにしておけばよかったな、と後悔し、とりあえず台所からコップに水を汲んできて、手渡す。臨也さんはそれを受け取って、何とかおにぎりを喉に流し込んでいた。
その時、コップを持つ臨也さんの右手に、いつもの指輪が無いことに気づいた。


*02

四畳半に男二人は狭い。夜更けになり寝る段になって、そんな当たり前の事実に困ってしまった。静雄さんほどの上背ではないけど、臨也さんは僕より大人で背もあり、横になれば場所もとる。

それに普通に寝るには僕の分のほかにもう一組の布団がいるけど、一人暮らしの僕の家には客用の布団はなかった。

一応、冬用の毛布が余分にはある。でもこれだけでは寒すぎるし、第一、布団を敷いて横になる物理的な面積が、この部屋には足りていない。どうしようかな、と押入れの襖を開いて悩んでいたら、すぐ背後から声がかかる。

「何してるの?」
「あ、えっと…臨也さんの布団、どうしようかなと…」
「ああ…俺、寝るところないね。押入れは空いてるみたいだけど」

空いているといっても、まさか臨也さんを某青い猫型ロボットのように押入れの中で寝させることもできない。

「…どうしましょう?」

押入れの襖を閉めて、臨也さんを振り返る。心なしかわき腹を庇って立っていた臨也さんは、小さく首を傾げて笑った。

「君がこの家の主で、俺はただの居候。俺は君の決定に従うよ」

そんなことを言って、じゃあ風呂場で寝ろと言ったら仕込んだナイフを向けてきそうだ。弱っているとはいえ、目の前の優男は池袋最強の男とタメを張る強さだ。無理な提案は得策ではない。

「じゃあ、あの。申し訳ないですけど」

机を端に寄せて、床に敷いた一枚の布団を指差す。臨也さんは理解したようで、笑った。

「申し訳ないのはこっちだけどね」

気恥ずかしい思いをしつつ、二人で並んで横になる。一つの布団に男二人は狭い。時間が午前を回る頃、部屋の灯りを消した段になって、そんな当たり前の事実と、すぐ傍の人の体温に困りつつ、僕は目を閉じた。


*03

「布団、固いね」
「それは…安物ですから」

朝になって、先に起きていた臨也さんは朝の挨拶の前にそうコメントした。普段はウォーターベッドとかで寝ている人には、寝心地が物足りなかったようだ。

それから、簡単な朝食の後、少し痛そうにしていたので、念のためわき腹の湿布を変えてあげた。昨日より青い部分の色合いが濃くなっていて、広がっていた。

「痛いなぁ、もう」
「やっぱり、病院行った方が…」
「んー…平気。骨は無事っぽいから。それに、かかりつけ医のところは、今はちょっと近寄れないな」

臨也さんは追われているらしい。だから、待ち伏せされていそうなところにのこのこ姿を現すわけにはいかないようだ。臨也さんが、何とはなしに、アパートの窓から外を見る。僕も見てみるけど、何の変哲も無い景色があるだけだ。

「帝人君は、学校?」
「あ、はい。…わ、そろそろ出ないと」

時計を確認すると、遅刻すれすれな時間になってしまっていた。立ち上がって、鞄を手に取る。急いで玄関に向かい、靴を履く。臨也さんも遅い足取りで、玄関まで見送りにきてくれた。

「いってらっしゃい」
「い、いってきます」

臨也さんが笑って、指輪の無い右手をひらひらと振る。僕は玄関の扉を開けて、アパートから出る。閉まる扉に、鍵をかけずに、歩き出す。

(リアルでいってらっしゃいなんて、久しぶりに言われたなぁ)

電車に間に合わせるため、早足で歩きつつ、そんなことを思った。


*04

「みーっかど!今日お前ん家で芸術鑑賞会な!」

放課後、幼馴染の紀田くんが隣のクラスからやってきて、腕を組んできた。なにやら上機嫌で、テンションが高い。いつものことだけど。

「何、芸術鑑賞会って…」
「そのまま芸術を鑑賞すんだよ。アートをウォッチングすんだよ。女体という芸術を!お前の大好きな爆乳ものだぜ!?」
「それ、平たく言うとAVでしょ?!あと、僕は別に爆乳とかはっ…!!」

言いかけて、まだ教室に残っている他のクラスメイトの視線を集めていたことに気づく。慌てて笑顔で取り繕い、紀田くんの足を踏み、痛がる彼の耳を引っ張って教室から逃げ出した。

人の少ない廊下を選んで通り抜け、何とか校庭まで出て行く。そこで一息ついて、引っ張り続けていた紀田くんの耳を離してあげた。解放された耳をさすり、紀田くんが頬を膨らませて不満を挙げる。

「ったく痛ぇだろうが!いいか帝人、お前だから許すけどな、お前じゃなかったら今頃ボコボコのギタギタのズタズタだぜ?」
「ご、ごめん。あー、あと今日、っていうか多分しばらくは遊べないや」
「はぁ?!何で?バイト?」
「うーん…バイトっていうか…ボランティアかなぁ」

家に臨也さんを匿ってるんだ。とは言い出せず、悪いとは思いながらも親友の誘いを断った。紀田くんはDVDを片手に疑問符を浮かべた。けど、僕の様子を察したのか、しつこく追求するようなことはなかった。



(あ、鍵)

アパートの玄関の前で、鞄の中から鍵を探す。しかしその前に、がちゃり、と開錠音がして、扉が開いた。

「やぁ、おかえり」
「ただいま、です」

臨也さんはシャワーを浴びたらしく、髪が湿っていた。僕が家に入ると、臨也さんは少し外を気にしながら扉を閉めて、鍵をかけてドアチェーンも施す。

朝は急いでいて気づかなかったけど、玄関に自分のものではない靴があることに不思議な気持ちになった。おかえり、と声をかけられることにも。

鞄を置いて部屋を見渡すと、見覚えの無いダンボール一箱と、これまた見覚えの無い一台のノートパソコンがあった。ダンボールは開けられていて、中には男性用の服が詰め込まれている。

「昨日のうちに、着替えを送るように言っておいたんだ」

まだ濡れている髪をタオルで拭きつつ、臨也さんが言う。そういえば臨也さんは昨日とは違う服を着ていた。やはりあのコートを着ていない臨也さんは、新鮮な気がした。

臨也さんは、僕に見せ無いようにか、ノートパソコンを閉じた。ノートパソコンにはデータカードが挿されている。これでインターネットに接続していたらしい。窓近くの机を見ると、僕のパソコンがある。使われた形跡はなかった。

「ああ大丈夫、君のパソコンには指一本触れないよ。ダラーズの指令塔の一角でもあるし、魅力的な情報も多そうだけど。俺はそれほど恩知らずじゃないさ」

僕の心を読んだかのような台詞だった。僕はその言葉をどこまで信じればいいのかわからなかったけど、かなり難解なパスワードも設定してあるし、さしあたっては臨也さんのことを信用することにした。

それに、いちいち警戒していたら身が持たない。僕はブレザーの制服の上着だけを脱いで、軽く夕食の準備に入った。

「あ、夕飯ですけど…今日は雑炊です」
「悪いね、気を使わせて」

昨日今日では、まだ口の中の傷は癒えていないだろうと考えて、あまり噛まなくても済む料理にした。雑炊くらいなら、僕にも簡単に作れるし、材料費もそうかからない。

とりあえずお米を洗おうと、狭い台所で腕まくりをすると、横においてあったまな板の上に、臨也さんが封筒を置いた。

「何ですか?」
「とりあえず、当面の分」
「え?」
「着替えと一緒に用意させたんだ。足りなかったら言ってよ」

わけがわからないけど、一応封筒の中身を確認する。ピンとまっすぐな一万円紙幣が数十枚、入っていた。こんな大量のキャッシュは初めて見るので、思わず動きが止まる。

こんなの貰えない、と突き返そうと声をかけようとしたが、臨也さんは窓際に立ち携帯で電話をしていた。声をかけそびれて、仕方なくまな板の横に封筒を置く。

(あれ、お金あるならこのアパートにいる必要、無いんじゃ)

これだけの資金があれば、ネットカフェだろうが、それこそ高級ホテルだろうがどこでも泊まれるだろう。なぜ着替えまでここに送らせたんだろう。だし汁を沸騰させながら考えて、あのわき腹の青痣群を思い出す。そして、彼が追われているということも。

(…もしかして、僕って相当ヤバイ状況の人を抱え込んでるのかも)

怪我で動き回れない。そして、見つかると危険なので、軽々しく外を出歩けない。臨也さんはきっとそんな状況なんだ。おそらく、今日もこのアパートから一歩も出ずに過ごしたんだろう。

自分の意思で匿ったとはいえ、彼を取り巻く危険な事情にも、こちらの同情心なんて覆してきそうな臨也さんの人格にも、双方注意しなければいけない。雑炊の味見をしながら、僕は思う。
傷に沁みないように、塩は少なめにしておいた。


*05

僕の心配をよそに、臨也さんを匿って二日が経っても、状況に異変はなかった。一番心配していた臨也さん自身の振る舞いも、あの勝手気ままで、異常な性格もなりを潜めている。平生の臨也さんを知っている人間からすれば、不気味なほど大人しい。借りてきた猫のようだ。

(それだけ怪我が酷いんだろうな)

湿布を張り替える。まだ、青い内出血の色は引かない。市販の痛み止めを買って、飲んでみてもそれほど効果が無いらしい。臨也さんは床に横たわってノートパソコンを操作しながら、たまに顔をしかめている。

「痛いんですか?」
「それはもうね。できれば代わって欲しいくらい。帝人君痛いの得意っぽいし」
「い、いえ別に得意ではないですけど…」

普通、そういうのは僕側から言い出すことなんじゃ…。でも、余裕そうに振舞うのは臨也さんなりの気遣いなのかもしれない。

僕は自分のパソコンを起動して、片手でキーボードを打ち検索ワードを入力した。インターネットを閲覧して十数秒で、パソコンから離れる。そうしてすぐ傍で横になっていた臨也さんの背中を撫ぜた。

「何?」
「撫でて、血流を促進すると良いらしいです」

僕は医学の知識なんてないので、インターネットの受け売りをそのまま実行した。臨也さんは一瞬困惑したような表情をしたけど、すぐに僕を気にせずにノートパソコンに視線を戻した。

「仕事ですか?」
「うん、まぁね。自由業だけど、いきなり止めれる仕事でもないし。できる範囲ででもこなさないと、こっちが危ないから」

ちらりと見えたパソコンの画面にはメール画面が開かれていた。でも、そこに書かれている文章は意味がわからない単語ばかりで、おそらく隠語のオンパレードなんだろう。すぐに目を逸らして、チューナー内蔵の僕のパソコンでテレビをつけ、それを見ながら臨也さんの背中を撫でる。

「これ、結構気持ちいいかもしれないなぁ…心なしか痛いの楽だし。錯覚?」
「(錯覚って…)そ、それなら良かったです」
「他人とかペットとか、撫でたり撫でられたりすると何かのホルモン出るらしいけど、それかもね」

臨也さんがノートパソコンから手をどけて、床に手を組んで俯いた。しばらく背中を撫でていると、反応が無くなる。痛いのかな、と心配して軽く名前を呼んでみたけど、返事が無い。寝てしまっていた。

(お風呂沸いたら起こさなきゃ)

この人、寝起き最悪そうだからちょっと嫌だな。僕はテレビの音量を下げ、ゆっくりと、臨也さんの背中を撫で続けた。


*06

臨也さんの青い痣は、ほんの少しずつだけれど引いてきた。痛みはあるけど、ピークよりは楽らしい。それに伴って、臨也さんは室内で活動的になってきた。

「臨也さん、洗剤使いすぎですよ!泡、溢れてるじゃないですか…」
「これくらいないと汚れなんて落ちないって。ていうかさ、食器洗濯機ないの?まずこの家、家電少なすぎなんだけど。炊飯器とパソコンのみって、ここ日本だっていうのにありえないでしょ」

四畳半だから置く場所もないし、そもそも自分の生活に必要ないと判断している。しかし臨也さんはきっと多くの便利な家電に囲まれて暮らしていたのだろう、この家での生活水準に文句が多かった。

「隣の部屋の住人はあんまり居ないからいいとして、上の階の歩く音が聞こえるとか、アパート全体が風で若干揺れるとか、凄いよね、ここ」
「学生用の安アパートなんですから、多くを求めないでくださいよ!」

食器を洗う臨也さんの横に立って、手伝う。シンクには泡まみれの皿が積まれているので、それを一枚ずつ水で流した。
この部屋はどこをとっても狭いけど、特に台所が狭い。二人で立つとパーソナルスペースが確保できず、ほぼ腕が密着する形になった。

(あ、指輪)

臨也さんがこのアパートに来た初日にも気づいたが、いつもしていた右手の指輪が無い。左手の指輪は、泡の隙間に確認できた。僕に気づいた臨也さんが、ああ、と思い出したように呟く。

「いつの間にか無くなってたんだよね。多分、あの日にどこかで落としたんだと思うんだけど」
「落としたんですか?」
「もともとちょっと緩かったからね」

臨也さんの手は大人の男の人らしく、僕より大きい。特別平べったいわけでも、肉厚なわけでもない。その骨ばった手に、銀色の指輪が足りない。

「まぁ、どうせ新しいの買うからいいんだけど」

臨也さんは指輪に特に思い入れはないらしく、関心なさそうに皿を洗い、泡を量産した。


*07

(買いなおすって言ってたから、もう要らないのかな)

学校の帰り道、それを拾ってからしばし考え込んだ。見知ったデザインの、銀色の指輪だ。

アスファルトか何かで削れたらしく、よく磨かれた表面が傷ついているのがわかる。汚れているけど、高価そうなラインをしていた。臨也さんの右手の指にあったものと、同じものだという検討がつく。

(ここで、臨也さん…っていうか多分静雄さんも、何したんだろう…いや、いつものことなんだろうけど…)

その道は少し分け入った道で、3階建てくらいのビル二つに挟まれている。自分も幾度か通ったことのある道だけれど、普段と様相が違う。

まず、爆発でもあったのか、ビルの外壁がひび割れていた。そして、事故にでもあったのか、バンパーが大きくへこんだ高級外車が一台、ビルの壁に、縦にたてかけられていた。

(いや、事故じゃこうならないな…静雄さん、かなぁ…)

あたりにはその車のガラス片、ミラーの残骸が散らばっている。その中に指輪が落ちていた。よく、これだけの破片の中から小さな指輪を見つけられたなと自分でも驚いた。

周辺に警察が立ち入った気配はない。誰も届出ていないのだろうか。もしかしたら、臨也さんが何か手をまわしたのかもしれない。

あまり深く関わらない方がいい、と誰もが考えているのか、この近くを歩く人も立てかけられた車を見ないようにしている。僕もそれに倣い、指輪を制服のポケットにしまい、その場を去った。

といっても、この件に大きく絡んでいそうな臨也さんが待つ家に向かうので、関わる関わらないという段階では、もはや無かったけれども。



スーパーで買い物を済ませてから家に帰ると、居候の臨也さんは携帯電話で愛をささやいていた。

「だから…大丈夫だって。業者にも見せたから。…うん、安心して。愛してるよ」
「……」
「浮気って…馬鹿だな、俺にそんな時間あると思う?一日4時間睡眠で頑張ってるのに。プライベートじゃ、君以外には時間裂けないよ」
「……」
「うん…うん、それじゃ、またね」
「……」
「あ、おかえり」
「ただいまです」

僕が買った食材を台所に置き、鍋にお湯を沸かし、ネギやかまぼこを切り、夕飯のうどんを作り終える間に、臨也さんは電話を4回かけた。
うち3回は、おそらく女性相手で、さっきと同じような会話内容だったけど、うち1回は、淡々と隠語らしい言葉を話していた。

「そういえば、新聞の勧誘来たけど」
「あー、たまに来るんですよね…」
「やけにしつこいんで、勝手だけどあと半年は来ないようにしておいたよ」
「ど、どうやってですか…」
「企業秘密だよ」

非合法的な方法を使ったのだろうか。詳しいことは聞きかねた。とりあえず、僕はうどんに卵を投入した。電話のことや、新聞の勧誘人の安否が気になって、とうとうその日、指輪について切り出せなかった。


*08

僕が翌朝起きると、同じ布団で寝ていた臨也さんはもう起きていた、というかずっと起きていたようだった。布団の上で横になり、ノートパソコンに向かって忙しなく文字を打っている。傍には数台の携帯電話が、充電器に繋がれて転がっていた。

「え、臨也さん、寝てないんですか?」
「うん。眠たくならなかったから。でもお腹はすいたな」
「ああ、はい」

布団から出て、炊飯器のスイッチを押す。炊き上がるまでに学校の準備をしようと、制服に着替える。と、臨也さんがそれまで動かしていた手を止めて、横になったまま僕を見上げた。

「何ですか?」
「いや?現役高校生の生着替えだなって」

臨也さんは軽口を言い、冗談ぽく笑って、すぐにこちらから興味を失った。ノートパソコンのキーボードを打つ音が連なる。

布団の横に立っていた僕は、どう反応するのが一番良いか考えあぐね、結局、ノーコメントで朝の味噌汁の準備(といってもインスタント食品なのでお湯を沸かすだけ)をすることにした。

朝食の後、僕は学校用の鞄の中に教科書やノートを入れた。と、また臨也さんは動かしていた手を止めて、僕を見た。

「何ですか?」
「別に」
「……?」

僕が視線に気づくと、臨也さんはすぐに携帯をいじったり、パソコン操作に戻った。僕は臨也さんの意図するところがわからず、やっぱりノーコメントでその場を収める。

が、僕が諸々の準備を終えて、時計を確認して玄関に向かおうとした時、ようやく臨也さんは考えをはっきり言葉に出した。

「学校行くの?」
「え?はい、平日ですから」
「休んじゃいなよ。俺が高校生の時はそんな真面目に毎日通ってたりなんかしてなかったよ。行っても午後からとか。普通に登校するとシズちゃんいるしね」
「そ、そうなんですか…でも、風邪でもないのに休めませんよ」
「そう硬いこと言わないで、さ?」
「わっ」

いつの間にか立っていた臨也さんが、僕の腰を掴んで、布団に引き込む。布団は、冬だというのに臨也さんの体温が滲んで生暖かい。制服がぐしゃぐしゃになりつつ、突っ込まれた布団の中から何とか顔を出す。

布団の中から出ようにも、臨也さんが僕を抱き込んでいる。臨也さんの冷たい足が絡んで、どきどきした。

「な、何するんですか?!」
「撫でてよ」
「はっ?」
「背中をさ、この前みたいに。俺が寝るまででいいから」
「い、痛むんですか?」

臨也さんがくぐもった声で、うん、と応えた。布団の中で、僕と臨也さんは正面から抱きしめあう形になる。背中を撫でてやると、臨也さんは微かに肩の力を抜いた。この前のように、ゆっくりとしたペースで撫でる。

(痛くて眠れなかったって言えばいいのに)

しばらくすると、耳元で臨也さんの寝息が聞こえ始めた。僕を抱きこむ腕の力も弱まる。出て行こうと思えば出ていけそうだ。臨也さんも、寝るまででいいと言っていたし。

(今なら僕でも殺せそう、この人)

それでも結局、僕は臨也さんを放っておけなくて、学校に仮病の電話をした。


*09

いつの間にか眠ってしまっていた。外はすっかり暗くなっていて、アパート横の道を通る車のテールランプの光が、カーテンの隙間から真っ暗な四畳半を突き刺しては去っていく。

臨也さんはまだ、布団の中で眠っていた。伏せられた長い睫と整った顔が暗がりに見える。きれいな人だなとは常々思っていたけど、こんなに近くで拝むのは初めてだ。臨也さんの寝顔を見られる人間なんて、この世界にどれだけいるんだろう。

寝癖のついた臨也さんの黒髪を撫でる。臨也さんの周りに置いてある携帯電話は全て着信ランプが灯っていて、その青や緑、赤のとりどりの色の小さな光が小さく部屋を照らす。
気づけば僕の携帯にもメールが来ていて、内容は紀田くんと園原さんからの体調を心配するメールだった。

心配させないように、明日は行く、という旨のメールを出す。また、紀田くんに嘘をついてしまった。僕は紀田くんを親友だと思っているのに、嘘まで行かずとも、隠していることがいくつかある。ダラーズについても、臨也さんについても。

僕を案じてくれる紀田くんを裏切るような気分で、正直、心苦しい。

(僕も、騙されてるのかなぁ)

臨也さんが電話をしていた女の人みたいに、自分も代えの効く存在なのだろうか。そもそも自分は臨也さんに愛をささやかれたことなんてないから、本当に単なる宿扱いなのかもしれないけど。

けど、僕を、しがみつくように抱きしめる臨也さんを突き放せない。紀田くんが警戒するように、どう控えめに考えても、世間一般には悪い人なんだと思う。頭ではわかっている。僕にとっては、何かあると情報をくれたりするので、「いい人」と感じることもあるけど。

僕は、臨也さんの背中を撫でた。臨也さんが身じろぎして、緩んでいた腕が僕を強く抱きしめた。その仕草に、思いがけず、可愛いと感じてしまった。大人の男の人に対して可愛いなんて、そうそう持ち得ない感想だ。

(きっと、いつもの臨也さんじゃないからだ)

いつもの臨也さんは、あの黒いコートを来ていて、銀の指輪をしていて、神出鬼没で、食えない人で、悪戯のノリで人を絶望の淵に追いやるような。外道を体現したような人だ。決して僕の目の前で無防備に寝たりはしない。

(きっと、コートを着ていないから。指輪をしていないから)

ふと、制服のポケットに入れたままの、あの傷ついた指輪を思い出す。そして、何もはまっていない、臨也さんの右手の指を見る。

その時、臨也さんが目を覚ました。僕は何故か、隠すように指輪を握りこんでしまう。返せばいいのに。要らないかもしれないけど。

「あれ、夜?」
「はい」
「そう」

それだけのやり取りを終えると、臨也さんはのそのそと布団から這い出ようとして、でもすぐに寒い、と呟いて布団を被って寝入ってしまった。僕は噴出しそうになるのをこらえて、あやすようにその背中を撫でる。

この数秒の瞬間を見れただけでも、この人を匿ってよかったな、と、損得勘定がマヒした頭が考えた。


*10

寝すぎて、体の節々が痛い。時間は深夜だろうか。布団から起き上がる。外のわずかな光を受けて、ほのかに暗い四畳半が広がる。

(あれ、広い)

そう錯覚した。手狭に感じていた空間に、ぽっかりと何か抜けている。暗闇に溶ける黒髪がいないことに気づいた。部屋を見渡す。狭いし物も少ないので、隠れる場所なんてない。

押入れを開けた。部屋よりも暗い、何も無い空間が目の前にある。浴室と、トイレの灯りは消えている。台所は、きれいに片付けられていた。

そこでようやく、僕は部屋の灯りをつけることにした。白色電灯がはっきりと、僕以外の無人を示した。
それどころか、ダンボール箱も、ノートパソコンも、数台の携帯電話も無くなっている。玄関に、靴もない。残っているのは机の上の数十万円の現金が入った封筒だけだ。

帰ったんだな、と思った。あまりにもあっさりと、臨也さんは居なくなった。挨拶もないのが彼らしい。

制服のまま寝てしまったことを思い出して、皺になったらいけないので、ブレザーの上着を脱いだ。拍子に、ポケットから銀色の指輪が落ちる。拾い上げて、安っぽい電灯の光にかざした。

(結局返せなかったなぁ)

急に、臨也さんと過ごした記憶がリアルさを失っていった。元通りの、僕の日常が四畳半を包む。静かな夜中には、僕以外の呼吸も、キーボードを打つ音も、ささやく声もない。

あれは夢だったような気がしてきた。僕は眠りすぎていた。それか、あの臨也さんは偽者だったような、そんな感覚がした。4200ケルビンの光が部屋を照らすのに、僕の脳は覚醒しきらない。視界が、薄ぼんやりとした。

あれは夢だ、と思うようになると、今までの記憶があやふやになってきた。しかし傷ついた指輪は僕の手の内にある。これだけを、パラレルワールドから持ち帰ったんじゃないだろうか。妄想めいた、そんな不確かさの塊は、冷たい銀色をしている。






「なぁなぁ帝人、ボランティアってよー、出会いありそうじゃね?!助け合いの精神を持つ心優しい少女とか女性とか乙女とか!」
「ないよ…っていうか、基本的に一期一会だと思うよ?」
「いやいや、それはお前が次に繋げる努力を怠ってるからじゃねーのか?愛を育むのに手段も場所も理由も動機も関係ねぇんだぜ。ノーリーズン。わかるな?ということで俺も傷ついた少女を癒すようなボランティアがしてぇんだけど」
「そんなボランティア無いでしょ!!っていうか紀田くん、動機が不純すぎ…」

紀田くんは欲望まみれのボランティアを諦め、例のDVDの感想のようなものを教室で、しかも園原さんの前でとうとうと語り始めようとしたので、慌てて校外へ引き連れた。叱る元気も無い。

紀田くんも園原さんも放課後に用があるといい、僕たちは池袋の街中でばらばらに別れた。僕はとくに用もないし、まっすぐ帰ろうと中心街から離れていく道を歩く。道には、来良の制服や、行き交う人がうごめく。

1メートル先の道路も見えないくらいごった返しているそこで、あの黒いコートを見た。怯えたわけじゃないのに、息が引きつる。

人ごみの中でも、臨也さんはスタイルがいいし顔が良いので目立っている。対して、あちらは僕に気づいていないようだ。これだけ同じ制服が群れていたら、当然だ。

臨也さんは以前のように黒いコートを着て、買いなおしたのだろう、右手にはきちんと銀色の指輪がはまっていた。いや、今までが夢だとしたら、そもそも臨也さんは指輪をなくしていないか。

話しかける口実もなく、臨也さんに話しかけるわけでもなく見ていると、臨也さんはこちらに一瞬も視線を向けず、あっという間に人ごみに紛れ、歩いていってしまった。何もなかったみたいに、素通りしていく。

その姿が見えなくなる。僕は、自分が制服のポケットに入れた指輪を握っていることに気づいた。取り出して、傷ついた指輪を、自分の右手にはめてみる。

(そういえば、ちょっと緩いって、言ってた)

指輪はぶかぶかしていて、僕の指には不恰好だ。僕は少しだけ、臨也さんの背中を撫でた感触を思い出す。臨也さんの背骨の間隔とか、肩甲骨とか、起伏が右手によみがえる。
それは、ひどく優しくて、ばかげた夢だった。



***

ビルとビルの間の道に散らばっていたガラスやミラーの欠片は簡単に掃除されていた。掃除といってもずさんなもので、側溝には掃ききれなかった小さなガラス片などが詰まっている。
ところが、ガラスやミラーの掃除はしても、ビルの壁に縦にたてかけられた高級外車はそのまま放置されていた。

(俺の車じゃないからどうでもいいけどね)

高級外車の先頭にある、某有名メーカーのオーナメントは無事だが、大きくへこんだバンパー、割られたフロントガラス、そして車体の異様な体勢が全体的に滑稽でみじめな様相を帯びている。

見ようによっては前衛的な路上アートのように見えないこともない。が、そこはさすがシズちゃん。脳まで筋肉なだけあって、美的感性が全く無い。

その車の周辺と道をざっと見渡す。やはり、目当てのものは見つからなかった。

(俺のだけど、どうでもいいか)

何も無い右手の人差し指を見る。数日前、俺はここで指輪を落とした。それほど大切なものではないが、気に入っていたので一応池袋での用のついでに、確認しに来た。数日前のことだし、もうガラス片と一緒に捨てられているだろう。

あの指輪は、買ったものではない。貰ったものでもない。俺が他人の指から抜き取ったものだ。誰から、と言われると詳しいことは覚えていない。要らない情報はどんどん忘れていく性質だからだ。

(…ああ、思い出した)

ガラス片を踏みながら思い出に浸る。思い出したと言っても、その他人の顔や名前や声を思い出したわけじゃない。自分にとっての事実を思い出す。

あれは確か、俺の『趣味』である人間観察の最中に、初めて死んだ男だった。自殺志願者だったわけでもないし、直接俺が手を下したわけでもない…というか何故死んだのか、俺もよく覚えていない。死んだ場面は思い出せるけれど、そこに至るまでの過程が思い出せない。

おそらく、どうでもいい存在だったんだろう。間違いなく俺の存在が彼の死期を早めたし、決定的にその死に一枚噛んでいたような気もするが、思い出せないんだから仕方ない。

その男の死体は、頭が割れてしまい、血と脳漿を飛び散らせていた。それを見たとき、ああ、良い指輪をしているなー、と思って指から抜き取った。ただそれだけの思い出だ。思い出した途端に、やはり要らない情報だなと思う。

ガラス片から足を上げて道路から離れる内に、その男のことはきれいさっぱり忘れた。

(やっぱり、まだ痛いな)

大通りの人ごみの間を歩きながら、自分のわき腹に手をやる。一時期よりは楽だが、それでもまだ動くと痛む。腐れ縁の闇医者から痛み止めを処方されているけど、飲んでいない。どうしてか飲む気が起きなかったからだ。

(撫でてもらわないと…波江…は無いな。麻酔を刺されそうだ)

目の前には交差点が見えてきた。大勢の人間が、皆それぞればらばらの方を向き、ばらばらに足を動かし、ばらばらの格好で、ばらばらのことを考える。多種多様にして十色の人間たちが愛おしい。

(俺もよく、あの四畳半で我慢したなぁ)

昼間は誰も居ない四畳半に閉じこもった数日間、俺は愛する人間たちをほぼ断っていた。退屈な空間で数十時間も、よく耐えた。関わったのは、ほぼ帝人君だけだ。観察しがいがないわけじゃなかったけど。

あの数日間は、ダメージを負っていたことを差し引いても、下手な振る舞いをしてしまった。柄にも無く大人しく、無害な居候を演じてしまった。あれだけ彼の近くに居たのだから、二つ三つは騒乱の種を撒いておけばよかったな。

四畳半は、他の空間と少し違うようだった。感覚が鈍くなる、というか、ぬるま湯のようだった。滞在時間はせいぜい二日と数時間と見積もっていたのに、結局約五日間も無為な時間を過ごしてしまった。寝過ごすなんて経験、久しぶりだった。

俺はあの日、彼に撫でられながら、四畳半で十数時間も寝てしまった。途中で一度目が覚めたけれど、布団から出ることは叶わずまた眠ってしまった。その後深夜に目が覚めた時には、横に帝人君が寝ていた。俺は彼を抱きしめていて、彼も俺の背中に手をやっていた。

俺はその時ほとんど何も考えず、彼にキスをしようとした。けれど直前で、俺の携帯が鳴った。そこで俺は夢から醒めたような感覚がして、思いとどまる。それから身支度を整え、その生ぬるい四畳半から抜け出した。

キスをしようとした件については、俺も多くは語れない。本当に何となく、であり、その場の気分だった。携帯の音が無かったら間違いなくしていたし、してしまったらそれだけで終わっていなかっただろう。

それはそれで楽しそうな展開になりそうで個人的には歓迎なんだが、それならどうして携帯の音程度で俺は思いとどまったのか、と聞かれるとそれもやはり何となく、でしか説明できない。

そもそも俺はあの時寝ぼけていたし、正直どういう状況で彼と一緒になって寝ていたかについても思い出せない。もしかしたら全てが夢で、携帯の音で俺は目が覚めたのかもしれない。

どこからどこまでが夢で何から何までが現実だったのか、今更知りたいとも思わない。現実に俺は彼の四畳半に世話になる礼に、数十万を波江に用意させ、渡していたのだから、あの四畳半での出来事全てが夢ということはないだろう。

(そういえば金は置いていったけど、お礼でもあげようかな)

夢うつつなまま、帝人君との生活を解消したため、あれが夢だったかのような感覚さえある。が、確かに湿布は張られているし、俺の右手に指輪は無い。

(まぁいいか、貸しておけば)

貸し借りも、何かの口実になるだろう。考えを切り替えて、俺は新しい指輪を買いに、交差点を渡った。