*01
静雄さんから暴力を受けた翌日の目覚めには、生きていることに感動する。凄い、僕、生きてる、と思わず呟く。ガタガタになった自分の体が、それでも機能を失わずに朝日を受けて再起動する。
生きていることへの、月並みな喜びだけじゃない。この後の催しに、僕は思いを馳せる。静雄さんに引き倒された時にぶつけた足が痛もうが、気にならなかった。
体には無数のアザが浮かんでいる。昨日ついたものか、以前ついたものか、時系列は判断できない。治りきらない内に新しいアザができるからだ。それでも生きるのに支障はない。案外、人間は丈夫なんだと、僕は思う。
あまり物音を立てないように、床を這い、立ち上がる。部屋はそれほど荒れていない。だけれど僕は制服のシャツを着ているのみで、そのシャツすらボタンが数個飛んでいた。僕は辛うじて残っている、下から二番目と三番目のボタンをとめる。見回すと、ベッドの傍に裂かれた制服の上着を見つける。
(そうか、昨日は学校帰りだったから)
繕っても済まないレベルの上着を着る気にはなれなかった。逃げようと背中を見せた瞬間に、びりっと素手でやられたんだ、と少しずつ思い出す。昨日は一体、何で暴力を奮われたんだろう。彼の不機嫌のサインを見逃していたのかもしれないし、仕事でストレスがたまっていたのかもしれない。突発的にホルモンバランスが崩れたのかもしれない。
静雄さんの部屋に転がる自分の制服を拾い集める。ベッドに静雄さんの姿は無い。もう仕事に出たんだろうか、と時計を見ると、まだ早朝の時分だった。きっと、朝食でも買いに行っているんだ。不在に安心するのと同時に、がっかりする。彼が居ないということは、目当てのそれは後に伸ばされるからだ。
それでも遅くはならないだろう。徒歩圏内のコンビニでの買い物には、どんなに粘っても十数分しかかからない。帰ってくる前に甘いカフェオレでも用意しようと、台所のコーヒーメーカーの電源スイッチを押す。
機械がコーヒーを作っている間に、とりあえず下を履くためクローゼットを開ける。そこでふと、自分の内股に何かが伝うのを感じた。見ると、精液らしい粘ついた液体が、僕の下半身を濡らしている。僕が意識を失った後に、静雄さんが致したらしい。着替えるのはやめにして、シャワーを借りに浴室の方に向かう。と、玄関で物音がした。
「…おかえりなさい」
僕はそう声をかける。隠れたりはしない。玄関のドアが閉まる音がした。そして、ばたばたと慌てた様子で、静雄さんがこちらにやってくる。
「竜ヶ峰!」
コンビニのビニール袋を提げた静雄さんが、僕の姿を見つけて、そのまま僕を抱きしめる。足元を見ると、土足のままだ。昨日の暴力を覚えている僕の体が震えだす。ゆっくりと静雄さんから離れようと、胸を押した。それに気づいた静雄さんが、僕以上に怯えるようにして、震えながら僕から手を離した。
「竜ヶ峰…、悪い…」
僕は静雄さんの顔を見ないようにしながら、ゆっくり後ずさった。「大丈夫ですから」「気にしないでください」を繰り返して、ゆっくりゆっくり距離をとる。意識せずとも、声が震える。目の前の人間はとても危険だということを、身をもって知っているから、体がオートモードで距離をとる。
「竜ヶ峰…」
そうして、そんな僕を見た静雄さんは、ひどく傷つく。二人分の朝食が入ったビニール袋を床に捨て、すまねぇ、と言った。許してくれ、とも言った。
「どうかしちまってた…俺…。悪い…」
謝罪の言葉を吐く静雄さんを、僕は見つめる。自分の彼氏が謝っている姿は、もう見慣れた。だいたいいつもこうなんだ。僕に暴力を奮った翌日には、後悔と罪悪感に打ちのめされて、僕に許しを乞う。二重人格とか、そういうわけではなくて、暴力をふるう静雄さんも、今僕に泣きそうな顔で謝罪する静雄さんも、人格は一つだ。
「ごめんな」
許すことは美徳だとして、でも、許したって僕のアザは消えない。目の前の男が怖いのは確かだ。平気なふりをしたって、体は過敏に反応する。勢いあまれば、僕を縊り殺すことだって簡単な人なんだ。目覚めの時に感じた生存の感動は、徹底した死への恐怖の経験を前提にしている。
それでも僕は叫んで逃げ出したりはしない。彼が不在の間に、警察に電話もしない。静雄さんが怖くて怖くて仕方ないけど、僕は彼を咎めない。それは単純に、咎められて逆上する彼に対する恐怖だけじゃない。僕は、静雄さんに期待している。待ちに待った、催しの時間だ。
なぜなら、これから痛いのや、怖いのを我慢した僕にご褒美がやってくるからだ。
台所のコーヒーメーカーから、芳しい匂いが漂う。僕は謝罪する静雄さんを見つめながら、まだかまだかと、そのときを待つ。恐怖にわくわくする気持ちが混ざる。
「ホントに…申し訳ねえって、思ってる」
「……」
無言で返すと、静雄さんはことさらに傷ついた目をした。噛み締めた唇が痛ましい。整った顔に、ひたすらに悲しみが浮かぶ。美形はちょっとくらい不幸な方が、色気があって良いんだ、とどこかの映画評論家が言っていたのを思い出した。同感だ。僕はサディストじゃないけど、泣きそうな静雄さんの顔が好きだ。
でも逃げないのも、暴力に我慢するのも、静雄さんを泣かせたいからじゃない。
「いつも…バカの一つ覚えで、こんなことしたって許されるわけねぇって、ちゃんと思ってんだ」
僕に謝り倒した末に、静雄さんがぽつりと言う。いよいよだ。静雄さんが床に膝をつく。僕は驚いたフリして、一歩引いた。やめてください、と形だけ言ってみる。床の上に、静雄さんが固くなりながら正座した。それから僕を見上げて、でもすぐ俯いた。大きな手を床につけた。そうしてゆっくり、静雄さんは頭を下げた。
「ごめん」
頭を下げたまま、搾り出すような声で、静雄さんは言った。高い背を低めて、僕の目の前で、池袋最強が三つ指ついて土下座している。僕は口を覆った。口角が上がってしまっているのが、自分でもわかる。
「顔を上げてください、静雄さん」
僕も僕で、定例の言葉を口にする。声は自動的に震えているけど、それが笑いから来る震えだと気づかれれば、僕の人生はここで終わるだろう。中々のスリルだ。土下座の形で頭を下げて床を見つめる静雄さんは、立っている僕がニヤついているのを知らない。
足元で重力に沿って流れる金色の髪が、少し震えている。屈辱的なんだろう。それはそうだ、同じ男だから僕もわかる。土下座なんて、できれば一生に一度だってしたくない。思ったよりもずっと、情けなくて、みじめなものなんだ。仕事で他人の土下座を見下ろす立場になることも多い静雄さんなら、尚更だろう。
そんな土下座を、静雄さんが僕にしている。頭を垂れて、僕に許しを乞う。刃にも銃弾にも屈しない、池袋の喧嘩人形が、僕に土下座している。そんな非日常に、僕は歓喜していた。彼と関わることは、痛みと、死への恐怖がついてまわる。それでもこの光景は、僕にとって余りあるほど価値のあることだった。彼の土下座は、僕にとって一つのエンターテイメントだった。
「すまねぇ」
床に向かって、静雄さんが再度呟く。全治二週間の僕の怪我は、静雄さんの謝罪の一言と、土下座で、簡単に事件性を失った。
*02
普通の病院にかかると色々まずいので、怪我の治療は専ら新羅さんに頼んでいる。闇医者なので保険はきかない。でも、知り合い料金で見てくれているようだ。それでも、静雄さんの給料で工面できる範囲はとうに超えていて、その分はツケのような形になっている。
今日も無料で、新しい怪我を診てもらった。新羅さんは、僕の体に不気味に浮かび上がる、青いアザの斑紋に眉一つ動かさない。けれど、いつも僕の顔を見て、呆れたような感心したような表情を見せる。
「本当、君の顔だけは殴らないんだね、静雄は」
「あ…はい」
そう言われて、僕は傷一つない自分の頬に手を当てた。静雄さんにとっては、十人並みのこの僕の顔も可愛く映るらしい。顔は好きだから、無意識でも殴れないと言っていた。
鏡を見ても、僕の顔は特に整っているわけでもない。まぁちょっと童顔かなとは思うけど、女の子に見えるほどでもない。どちらかといえば、静雄さんの方がモデルみたいにスタイル良いし、顔も美形だ。
なのに、静雄さんは僕を可愛いものとして扱うので、僕は少々面食らうこともある。どこにでもいる平凡な男である僕が、他の男と浮気したらだとか、他の男にレイプされたらだとか、普通ならありえないことまで真顔で心配する。
もし世界に静雄さんと僕の二人きりだとしたら、かわいいかわいいと褒めそやされた僕は、自分は可愛いんだと思い込んでしまうだろう。だけど実際の僕は、本当に冴えないただの男だ。僕が可愛いと思うのは、よっぽど静雄さんの趣味が特殊なんだと僕は思う。
「僕の顔の何が、良いんでしょうね」
「さあ、私には彼の考えることはわからないな。好みなんて十人十色だしね。俺は顔の造型云々以前に、顔の有無が重要だと思っているし」
診察を終えて部屋を出ると、何やら良い匂いがした。匂いのする方に目を向けると、黒いライダースーツにピンク色のエプロン姿のセルティさんが、台所に立っていた。そういえばそろそろ夕飯時だ。
「ああそうだ、夕飯を食べていきなよ。帝人君が来るって聞いて、セルティが用意してくれていたんだった」
「え…良いんですか?」
「そりゃせっかくセルティとの二人の時間だっていうのにという憎しみがないわけでもないけどね。寸善尺魔さ、帝人君なら静雄や臨也の奴に邪魔されるよりはマシだよ」
新羅さんはそう言いながらも、僕を料理が並んだテーブルに連れて行く。治療費すら満足に払っていないのに、新羅さんも、セルティさんもとても優しい。セルティさんの手料理は、個性的な味のするものもあったけど、久しぶりに食べるきちんとした食事は酷く、優しい味がした。甘めのお味噌汁を飲みながら、生きてて良かったと、僕は思った。
静雄さんは、僕の顔は好きだから、殴らない。僕のことは好きだけど、僕の腹は殴る。
「…っ…!う、ぐ…」
強烈な衝撃は、僕の胃をダイレクトに圧迫した。ポンプを押されるようにして、内容物が管を通ってせり上がる。僕はセルティさんの手料理を押し留めようとした。けれど痛みに倒れ、床に這いつくばった僕の背中を、静雄さんが軽く踏む。
「……っあ…」
フローリングに僕の吐瀉物がびちゃ、と跳ねる。消化しきれていないセルティさんの手料理は、床に広がると汚いゴミでしかなかった。しばらく背中を踏まれ、やがて内容物が喉に詰まる。と、静雄さんが僕の喉に指を突っ込んで、胃の中が空になるほどに吐かされた。
ぜえぜえと息を荒げる僕を、静雄さんが見下ろす。
「誰と食ってきた?」
机の上には、静雄さんが買ってきた夕飯が皿に盛られていた。二人分の夕飯だ。静雄さんは、僕が他所で夕飯を食べてきたことが気に入らなかったらしい。
「…新羅さんのところで…」
「ああ…」
静雄さんは僕の言葉に納得したようだった。新羅さんでよかった。ここで臨也さんとかの名前を出すと、すわ浮気だ!と手酷くやられる。
「けどもう、腹は空いただろ?」
静雄さんが微笑み、とっくに冷めている机の上の夕飯を指差す。出来合いの惣菜が並ぶ食卓は、セルティさんの手料理と比べる間でも無い。それでも、僕は席に座る。僕と一緒に夕飯を食べることが、静雄さんにとってはとても大事なことらしい。自分以外と食事をしたら、腹を殴って戻させるくらいだ。
僕は二度目の夕飯を、こじあけられた胃に流し込んだ。
その後、フローリングの上の吐瀉物を片付ける間もなく、静雄さんにベッドまで引きずられた。キスされる。キスは、恋人らしいものだと思う。映画やドラマで見る限りの知識しかない僕でもわかる。
静雄さんは、とても熱心に僕にキスをする。唇はもちろん、頬や首、額に眉間に、こめかみに耳にとにかくする。そしていつも、僕を「可愛い」と言う。
可愛いとか、好きだとか、静雄さんの美声に乗せられた言葉がとても耳に心地よい。こんなにも僕を可愛がる静雄さんが、僕を殴るのはいつも不思議だった。僕の頬を優しく撫でる手が一度握られれば、凶器になる。
その夜、ゴムをつけないでされそうになってつい抵抗した。眠るよりあっさりと、僕の意識は沈んだ。
*03
朝起きると、自分の内股に精液が伝う。いつもこうだ。静雄さんとのセックスは知らない内に行われる。意識のあるセックスはしたことがない。だから僕は心は純潔のつもりだ。
「(何の自慢にもならないけど)」
昨日はそれほど強く殴られなかったので、目覚めはすっきりしている。その代わり起きるのが遅くなってしまった。遅刻だけど、とりあえず学校に行こうと新しく買った制服に袖を通す。着替えて鏡の前に立てば、痣も何もかもが覆い隠される。
「(静雄さんは僕の顔に、傷一つつけないんだ)」
静雄さんの基準では、僕の顔は可愛い。だから大事にされてるんだと思う。ただ首は範囲外らしくて、絞められることもある。子供を虐待している親にありがちな、暴力を奮ってることを隠そうとかの意図ではない。一応、土下座するくらい謝るわけだから暴力事態を悪いとは思っているみたいだけど。
「(そういえば、昨日のレイプは土下座してくれるかな)」
鞄を手に持ち、玄関に向かうと静雄さんの靴は既に無かった。そういえば今日は早番の日だ。もう仕事に行ってしまったんだろう。楽しみは夜にとっておくことにして、僕は学校に向かった。
体育の授業はもっともらしい理由をつけて見学にした。普段優等生で通っている分、こういうのは融通がきく。平穏な学校生活に、彼の暴力も僕の嗜好も持ちこまない。園原さんにも、紀田君にも誰にも話さない。理解されないに決まっているからだ。静雄さんの暴力も、僕の非日常への憧れも。
自分だって、僕と静雄さんの関係が歪んでいるとはわかっている。だけど、彼は僕を好きにできる代わりに僕に屈辱的な姿を見せる。僕は彼に好きにされる代わりに、誰も見れないような光景を拝める。歪んでるからこそ、利害が一致しているんだ。
授業を終えて下校する帰り道、僕は今日の夜に期待を膨らませた。彼の罪悪感を刺激するために、それとなく痣の手当てでもしようか。湿布でも買って帰ろうかなと小さな画策を巡らせる。
しかし薬局に入る前に、後ろから呼び止められた。少し高めのよく通る声だ。僕は内心、ぎくりとした。
「帝人君」
振り返ると、静雄さんが毛嫌いする一人の青年が立っていた。
「臨也さん」
こんにちは、と軽く会釈をした。臨也さんも笑顔でそれに返す。僕は嫌そうな顔をしないでいられたか、自信がない。この人は本当に厄介だ。関わるとろくなことにはならない。静雄さんが臨也さんを嫌悪しすぎて、彼と話をするだけで機嫌が悪くなりがちだ。
一刻もはやく距離をとりたい僕だったが、それを臨也さんが呼び止める。
「偶然だね。ああそうだ、何か食べない?奢るよ」
「いえ…、すみません。遠慮しておきます」
「ふうん。シズちゃんが怖いから?」
無視して歩き去ろうとしたら、臨也さんは後ろをついてきた。そして軽い調子で話を続ける。
「新羅から聞いてるよ。DV受けてるんだって?」
「何の話かわかりません」
新羅さんがやすやすとそんなことを臨也さんに教えるはずがない。おそらく違うルートから仕入れたのだろう。静雄さんの暴力は、結構音も伴う。僕の呻き声と合わせて、隣の部屋の住人に漏れているのかもしれない。
「警戒しなくていいよ。俺は君を助けようとか考えているわけじゃないし、シズちゃんを警察に突き出そうとも思ってない」
第一、君は被害届けなんて出さないだろうしね。と、臨也さんが付け加える。その通りだ。静雄さんに土下座してもらえれば、僕は彼を許す。だから警察が介入するまでもない。ただの痴話喧嘩だ。
「じゃあ、何が目的で」
「いや、ほんと普通に観察してるだけじゃ、そろそろマンネリだなと思って」
「は?」
「そのままでも、十分君はシズちゃんを不幸にしてくれそうなんだけど」
どこか失礼な言葉を臨也さんが吐く。その言葉を問いただそうとした瞬間、腕を取られた。体が痛み、顔をしかめる。痛みに気をとられていた僕は、自分が何をされるかすぐには判断できなかった。
「…?」
本当にかすかな感触が額に残る。僕の手を取った臨也さんがすぐ傍に立っていて、僕はそれを見上げた。とても愉快そうな顔をしていたけど、それが度を越して不気味だった。
手を振り払って、額に手をやる。そして一瞬の出来事を思い起こした。
「……何するんですか?」
「帝人君は可愛いなあと思って」
「何を…」
「うん、本当に可愛いね。思わずキスしたくなるくらい」
心にも無いだろう台詞を、目の前の男はつらつらと吐いた。静雄さんが聞いたら怒りの余り気を失いそうになるような、そんな台詞だった。みしり、と背後で音がした。臨也さんの笑顔が歪む。僕は予想して、振り返る。
案の定、静雄さんが立っていた。
*04
静雄さんは臨也さんといつも通りのやりとりをして、二人でどこかに行ってしまった。僕はそれを追わず、家に戻る。そして念入りに痣の手入れをして、静雄さんを待った。間違いなく静雄さんは機嫌を悪くして帰るだろう。だが、今朝のこともある。怪我を痛がれば膝をついてくれることだろう。
そうしてわくわくしながら待っていたのに、静雄さんは一向に帰ってこなかった。心配になって携帯に電話をするけど、出ない。今日はもう帰ってこないのかもと思い、僕はがっかりしながら布団に入った。
まだ、浅い眠りの時だった。ずしりと圧し掛かられる重みを感じて、目を醒ます。暗がりの中で目を擦ると、静雄さんが横たわる僕に覆いかぶさるように、ベッドに乗っていた。
「静雄さん…帰ってたんですか?」
「ああ」
かすかにお酒の匂いがした。どこかで飲んできたのかもしれない。静雄さんの骨ばった手が、目を擦る僕の手をどけて、頬に触れる。セックスする時のような、あの僕を可愛がる手つきだった。眠りかけだったこともあり、それはとても心地よかった。可愛がられるという実感は、本当は嫌いじゃない。男だから違和感を覚えることも多いけど、静雄さんにこうして触れられるのは本当は嬉しいことだ。
しばらくそうやって、優しく撫でられていた。しかしふと静雄さんを見て、ぎょっとする。彼は泣いていた。
「静雄さん?」
「ごめんな、竜ヶ峰」
泣きながら、彼は謝罪した。今朝のことを言っているんだろうか。静雄さんはそのまま僕から手を離し、頭を垂れる。嗚咽の度、彼の体が震えた。背はあるけど細身の彼は、俯くととてもしおらしい。そろそろ土下座をしてくれるかな、と僕は体を起こした。けれど静雄さんは泣くばかりだ。今日はどうしたんだろう。
「あの…」
「ごめんな、竜ヶ峰。でも、大丈夫だ」
謝る静雄さんが、僕の肩を押して布団に押し付ける。起こしたばかりの体が軋んだ。静雄さんはまだ泣き続けていて、彼の涙がぽたぽたと僕の頬に降りかかった。彼の涙は、血のように熱い。
「静雄さん?どうしたんですか?」
「お前は、可愛いから」
また、頬を撫でられる。慈しむ指先も、ひどく熱い。お酒が入っているからだろうか。酔ってるからよくわからないことを言うんだろうか。そのまま、静雄さんは僕の質問を無視して語りかける。
「可愛いから…寄ってくるんだよなあ、蟲が」
「え…?」
掴まれている肩が痛んだ。熱い万力で挟まれたようで、身動きがとれない。
「大丈夫だ竜ヶ峰、俺はお前がどんなんでも愛せる。新羅とセルティみたいに、顔だか頭なんて関係ねぇんだ」
大丈夫だと、静雄さんが口にする度、僕の背筋を嫌なものが走る。静雄さんの涙が落ちて僕の頬を濡らす。僕の顔には傷一つない。静雄さんは僕の顔だけは殴らないからだ。静雄さんが僕の頬から、ゆっくりとその優しい手を離した。暗がりの部屋の空中で、それは握り締められ、一転して、凶器となった。
「……!!」
殴られる。意識は飛ばない、むしろ痛みと衝撃で一気に覚醒した。静雄さんは泣いている。僕は口の中を切って、血の、あの生ぬるい感覚がした。静雄さん、と声をかける前に、また一撃、殴られる。二発も殴られて意識が飛ばないのは、もしかしたら静雄さんがまだ力を入れきれていないのかもしれなかった。でも二回目は、一回目より明らかに重い。
静雄さんが腕を振り上げる。
「やめ…!!」
頭の中がごうんごうんと、すぐ傍で鐘をついたかのように鳴った。視界が揺れる。静雄さんの拳が血で濡れているので、血が出ているのがわかった。口の中で折れた歯のかけらが喉に転がって、引っかいていく。もう一発殴られ、気を失いかけて次の一発で目が覚める。きっと僕の顔は、もう既にかなり腫れているんだろう。視界さえおぼつかない。歯も何本も折られ、顔面の骨がひしゃげたのだろうか?言葉をうまく操れない。
「…し、…さ…」
「ごめんな竜ヶ峰…、でも、これで、臨也の野郎も、誰も、寄ってこない」
もう、彼に歯止めはないようだった。また一撃、腕が振り下ろされる。脳みそが揺らされて、痛覚が完全にいかれてしまっている。僕の頬が陥没して、口内が圧迫された。頬の筋肉が弾け千切れる。もう自分の意思では動かすことは出来ない。血の生ぬるさももう感じない。静雄さんは、僕の顔面が崩壊するまで、泣きながら腕を振り上げる。さっきの台詞からして、浮気防止のために、僕の「可愛い」顔を潰す決断をしたようだ。
接近する凶器に、反射的に目は閉じる。だけど損傷した顔が腫れて、瞼さえ動かせない。僕は目を見開いたまま、気を失うこともなく、僕を殴る静雄さんを見上げていた。彼は泣いている。罪悪感に心を痛めながらも、暴力を止めない。
がつん、と一際大きな衝撃が来て、僕の視界は真っ暗になった。眼球が破裂してないといい。そしたら、額を床につけて土下座する彼を、見下ろせないから。