男湯の壁面には、青い山脈の頂上に雪をたたえた富士山の絵が、一面に描かれている。張られたお湯からのぼる水蒸気が、雄大な絵を細かい水滴で濡らしていた。
その絵を背にして、僕は浴槽に浸かっていた。少し高めの水温が、僕の体温を引き上げる。内臓が茹でられ、息をするたび、肺に熱い空気が入っていくと、熱さに疲れが溶けていくような気がした。風呂無しのアパート住まいの僕にとって、この銭湯は日常の一部になっている。端の方の青色が剥げてきている壁面も、欠けたタイルも、一番右端の水しか出ない洗い場も、何もかも見慣れている。
しかし今日に限って、そんな見慣れた風景に見慣れないものが混ざっていた。
「なかなか情緒のある風呂屋だねぇ」
隣で浸かっている赤林さんが、そう言った。低音が、この空間の水蒸気を振るわせる。同じ浴槽に居る、僕にだけ聞こえるぐらいの声量だ。僕はとりあえず、そうですねと答えておく。
(銭湯にヤクザって…確かに情緒あるけど…)
赤林さんの背中に浮かんだ、立派な彫り物を眺めて思った。男湯だから、誰に咎められるわけでもなく見てしまう。筋肉質な体躯が、透明なお湯でたわんだように見えた。
色眼鏡をかけていないため、顔面に走る鋭い傷が露になっていた。そのグロテスクな傷跡にミスマッチな、人の良さそうな表情が、また僕に話しかける。
「風呂無しアパートっていうのは冗談か何かだと思ってたが、あれだよ、学生だってのに我慢して偉いねぇ」
「い、いえそんな偉いってほどのことじゃ…」
「今時、親と暮らしてても自室に冷蔵庫とかザラに聞くからさぁ」
偉い偉い、と子供を褒めるように言った。実際僕は赤林さんからすればどこから見ても子供だ。腕の太さなんて全然違う。というか、その辺の人間が束になっても、なかなか勝てないんじゃないか。笑顔なのに、赤林さんにはそういう凄みがあった。
「そういえば…、赤林さんは今日はどうして…?」
この銭湯には、来良学園入学以来、一年以上通っている。けれど僕は今日の今日まで、彼を見ていない。だからおそらく、赤林さんは普段この銭湯を利用しているわけじゃなさそうだ。赤林さんの服とか持ち物からして、僕みたいな風呂無し生活をしているようにはとても見えないし。
「いやいや、ちょいと運動したからねぇ。汗を流そうかなってさ」
「運動?」
「まぁ、軽い工作だねぇ」
工作、と聞いて、僕は大工仕事か何かかなぁ、とぼんやり考えた。赤林さんの体格を見れば、そのくらいの肉体労働はお手の物というイメージがあるからだ。趣味でか、仕事でかはわからないけど、僕は世間話のつもりで、聞いてみた。
「何を作られたんですか?」
僕の質問に、赤林さんがこちらを向いた。不自然な右目で僕を見て、そしてにやりと笑いながら、言った。
「透明人間だよ」
赤林さんの低音の声が、この空間の水蒸気を振るわせる。同じ浴槽に居る、僕にだけ聞こえるぐらいの声量だった。僕が面食らいながら、とうめいにんげん、と馬鹿みたいに言葉を繰り返すと、赤林さんがおかしそうに笑った。
「信じてねぇだろ?」
「えっと…はい」
「はは、正直だねぇ。まぁ、透明人間っていっても、映画にあるようなんじゃあないんだけどねぇ」
赤林さんが笑うと、右目の傷跡も歪んだ。からかわれてるのかなぁ、と再びの子ども扱いにやきもきしていたら、かちゃん、と音がした。何かと思えば、それまで浴室に居た人が、上がったらしい。入り口のガラス戸の向うを歩いている。
もともと流行っている銭湯でもないから、ただでさえ人が少ない。現に、今浴槽に浸かっているのは僕と赤林さんだけで、もう一人が少し離れた洗い場に居るのみだ。だからそれほど声を抑える必要もないのに、赤林さんは控えた声で話した。
「偶然だけどねぇ、ここはシマなんだよ、おいちゃんらの」
「え、そうなんですか?!」
「そ、だから前から、たまに場所を借りててね。今日も昼にこの浴槽を使わせてもらったのさぁ」
「使うって…」
「工作に、だよ」
僕は熱いお湯に茹でられて、噴出す汗を少し拭った。そうして、考える。お風呂場で工作ってなんだろう。僕らが今座っている浴槽は、銭湯としては標準的な深さに広さだ。確かに一般家庭の浴槽よりはかなり広い。けどわざわざ駅から歩く、こんな不便なところでやらなくてもいいんじゃないだろうか。
「ここで、ですか?」
「ここで、さ。開店前の、まだ水を張ってない時にねぇ。まぁ実際作業したのはおいちゃんじゃなくて、若いモンなんだけどさ。あれだよ、監修ってとこかな」
赤林さんが監修で、透明人間を作った、という。ここで。というか透明人間ってなんだろう、と僕は首をひねる。セルティさんみたいな、特殊な種族の人なのかな、と期待したけど、映画にあるようなものではないと言った。じゃあ、何かの比喩だろうか?全身鏡貼りの服とか…。透明とは言わないけど。
「ここでやると、掃除も楽だしねぇ」
「そうなんですか?」
「水で流しちゃえばいいんだよ、すぐ流せば汚れとかはつきにくいし。あとねぇ、作業のとき裸になれるしね」
「え…そんな汚れるんですか?」
「ああ、何しろ死体をバラすからねぇ」
それまでと全く変わらない声色で、表情で、赤林さんは死体という単語を発音した。僕は水蒸気に紛れたその言葉を、うっかり聞き逃しそうになる。死体という言葉が、お湯の中に沈む前になんとか拾い上げたけど、もてあましてしまう。思わず、まじまじと赤林さんを見てしまった。無意識に、その態度が続きを催促していたらしい。赤林さんが笑いながら話す。
「マトモにやってると、服に血がかかって仕方ないんでね。裸でバラして、終わったらシャワーを浴びて掃除をすれば、わかんないもんだよ。血の匂い、しないだろう?」
浴室の空気は、正しく銭湯のものだ。水分過多な空気を吸い込む。肺に水滴がつきそうなくらいだ。そこに、汗の匂いはあっても、血の匂いは感じ取れない。
「死体を細かーくバラしたらね、裏の釜場に持っていくんだよ。そうして燃料と一緒に焼いちまうのさぁ。こっちはかなり匂いがキツいけどね、高い煙突の先から流れるし、わかんないもんだよ」
僕は今、バラバラ殺人事件の概要を聞いている。気がつけば、洗い場にいた人ももういない。広い浴槽に、僕と赤林さんの二人だけがいる。僕は自分が今座り込んでいる浴槽に、死体から流れた血がこびりついているんじゃないかとタイルの隙間に目を凝らす。それを見て、赤林さんが笑った。今度は控えない、少し大きな声だ。低い、けど明るい笑い声が、浴室の高い天井に響く。
「残ってないと思うよ、若いのがタワシで一生懸命磨いたからねぇ」
「は、はぁ…。で、でもその話と、さっきの透明人間っていうのはどういう…?」
「ああ、そうやって死体をバラして、隠れて焼いちゃって無かったことにしちゃう…透明にしちゃうんだよ。死体が見つからなきゃあ、警察だって動けないもんでね。蒸発ってことにできる」
「で、でも探そうと思えば、見つかるんじゃ…」
「死体がなきゃ、生きてんのか死んでんのかもわかんないだろ、あんちゃん。誰にも見つけようもない、透明人間のできあがりさ」
玩具の名前を呼ぶみたいに、透明人間という言葉が使われた。確かに、死体が上がらない場合は殺人事件として捜査しにくいとか、テレビでよく聞く。死体が無ければ、生きていると思って探しても、見つからない。死んでいると思っても、死体が見つからない。透明人間というのは、そういう意味なんだ。
手作り透明人間の作り方の工程を話し終えた赤林さんが、ざぶんと湯船に肩まで浸かった。もうすぐ出るのかもしれない。しっかりした作りの首が水中に沈む。お湯が、一瞬赤色に見えた。
「あんちゃんもそろそろ出ないと、いい加減のぼせるんじゃないかい?…ああ、それとも背筋冷えちゃったかな?」
おかしそうに笑って、赤林さんが僕を見る。しかし一瞬、驚いたような顔をした。その様子にこちらも驚いて、どうしましたか、と聞く。けど赤林さんはそれについては答えず、代わりに大きな濡れた手のひらで頭を乱暴に撫でられた。
「あんな話の後にそういう顔ができるっていうのも、なかなか見所あるねぇ」
「え、それどういう…」
知らないうちに変な顔をしていただろうか、と恥ずかしくなって聞いてみても、赤林さんはくつくつ笑うだけだった。そして軽く会釈をして、浴室から出て行く。一人きりになった浴槽で、遠目に見ても立派な赤林さんの背中の刺青を見送る。
のぼせる前に上がらなきゃなぁと思いながら、広いお風呂を独り占めできるのは中々無いのでもったいなく感じた。10数えたら上がろうと、お湯に、肩まで浸かる。
(今日は何人の透明人間を作ったのか、聞けなかったなぁ)
壁面には、青い山脈の頂上に雪をたたえた富士山の絵が、一面に描かれている。張られたお湯からのぼる水蒸気が、雄大な絵を細かい水滴で濡らしていた。
僕はその絵を背にして、誰かが透明になったのかもしれない、浴槽に浸かっていた。死体を燃やして熱せられたかもしれない、少し高めの水温が、僕の体温を引き上げていく。
2010/09/25 5:34