*0

真っ白な廊下を歩いていた。ふと前を見ると、オレンジ色のドアが一枚、その白い風景の中で浮いている。

僕はオレンジ色のドアの前で足を止めた。ドアノブに手を触れる。金属のそれはひんやりとしているかと思ったら、手のひらに何の温度も感じない。

棒状のノブを下げると、ドアが開いた。鍵がかかっていないのだから、入っても大丈夫だろう。僕はオレンジ色のドアの中に入る。

ふとドア横の壁を見やると、真っ白な色をしていた。冷え冷えとしていそうなのに、手を触れても、何の温度も感じない。

壁から視線を外して、部屋の中を見た。学校の教室ぐらいの広さの部屋に、簡素なパイプベッドが、等間隔に4つ置かれていた。

(キャベツ…?)

そして4つのベッドの上に、一玉ずつ、キャベツが置いてあった。しんとした部屋の中で、まん丸の形をしているそれらがシーツの上にちょこんと置かれていた。
一つのベッドに近寄って、キャベツに触れてみる。やはり、何の温度も感じなかった。

ベッドに張られた、真っ白で清潔なシーツを見る。ここは病院のようだ。それにしても、あの病院特有の、薬品みたいな匂いはしない。

僕は部屋をぐるりと見渡して、そこにキャベツ以外に不自然なものがないことを確認する。そうして振り返ると、オレンジ色のドアは消えていた。

「え…あれ?」

白い床を歩いて、例に漏れず温度を感じない目の前の壁に手を触れた。押しても引いても、出口は現れない。

(どうやって帰ろう…)

出口の無い空間に佇みながら、僕は考えた。



*1

結局、ドアをくぐることはなかった。僕は眩しさを感じて、気づけば目を開けていた。

僕は四畳半の自室で、机に突っ伏して寝ていた。制服を着たままだ。傍には放り出した鞄まである。部屋の電気を点けていないせいもあって、窓から入る夕日の光が眩しい。夕日が、四畳半の畳をオレンジ色に照らしていた。

(眩しくて起きたのか…)

そういえば、学校から帰ってすぐに寝入ってしまったんだ。何であんなに急激な眠気がきたのかわからないけど、今日の体育の持久走が堪えたのかもしれない。

夢だったんだ、という不思議な落胆と、眠りを妨げる夕日の光をいまいましく思う。夕暮れ時の部屋でゆっくり起き上がりながら、僕は夢の内容を思い出していた。

真っ白な廊下と、オレンジ色のドアと、パイプベッドと、キャベツ。どういった心的状況が作り出す夢なんだろうか。夢っていうのは、記憶を整理するためのものらしいけど、僕はあんな真っ白な廊下も、オレンジのドアも、パイプベッドも最近は見ていない。

(キャベツだって、最近は野菜高くて買えてないし…)

もう一ヶ月は食べていないキャベツの甘味を思い出したら、ぐうとお腹が鳴った。携帯電話で時間を確認する。まだ夕方だ。実際寝ていたのは数十分から一時間くらいなんだろう。

そろそろ夕飯の時間だった。あの夢は、そろそろキャベツくらい食べたらどうだ、という脳からのメッセージかもしれない。

(じゃあ今日は奮発して、キャベツでも買ってこようかなぁ)

僕はあくびを引きずりながら立ち上がる。それにしたって、変な夢だったなぁ。夢の話をされても退屈だということはわかるけど、僕はそれを、誰かに話したかった。

夢という映像作品はDVDにも焼けないし、共有することができないけど、「不思議だな」って、誰かに一緒に首をかしげて欲しいと思った。

(ご飯に誘って、ついでに、の感じで…うん…)

僕は勇気を出して、携帯電話で想い人の番号を検索する。090から始まる番号を見る度、どきどきする。初めて電話番号を交換した日の夜は、一晩中番号を見てて、携帯の充電が切れるまで眠れなかった。

仕事中だったらどうしようかな、と思ったけど、最近は上がりが早いって言ってたし大丈夫だろう。僕は数秒ためて、通話ボタンを押した。



*2

数回のコールで、電話が繋がる。

「も、もしもし、静雄さん?」
『ああ、竜ヶ峰。どうした?』

非日常を地で行く、池袋最強の喧嘩人形でも、電話口での会話なら案外普通だ。多分、電話中にキレられると携帯を壊しちゃうから通話が切れると思うんだけど、今のところ僕はそういった状況になったことはない。

「えっと、今、電話大丈夫ですか?」
『ああ、今日は仕事午前だけだったからな』
「そうなんですか…!」

自然、声が弾むのが恥ずかしかった。電話口の向うはしんとしている。街中ではないようだ。仕事ではないみたいだし、家からかけているんだろうか。

そういえば、静雄さんがもう夕飯を済ましていたら、誘うとかじゃないよなぁ。僕は舞い上がりかけていたことに今更気づく。所詮片思いだから、正当な理由で断られればそれで終わりだ。

『で、何だ』
「あ、えっと…」

当然の質問に、僕は言葉に詰まる。うろたえながらも、僕が一緒に夕飯食べませんか、と言葉に出す前に、電話の向うで女の人の声が聞こえた。それに静雄さんが返事をして、さらに女の人も何かそれに返事をしていた。
細かいやりとりはわからないけど、そこに確かに誰か女性が居るようだった。

「今の…」
『悪い、看護婦さんに怒られたから、切るわ』
「看護婦さん?」
『またな』
「え、ちょ…」

僕の返事を待たず、電話は切れた。看護婦さん、と静雄さんは言っていた。仕事も午前だけだったという。

(病院…?)

今、病院にいるんだろうか。僕は心がざわざわしてきた。怪我とか、病気とか。確かに静雄さんは色々生傷が耐えない人だけど、普段は新羅さんにかかって、病院には行かないらしいのに。
もしかしたら傷が酷くて、救急車とかで運ばれたのかもしれない。

僕はお腹がすいていることなんて忘れて、とにかく心配になってきた。携帯に再度かけてみても、電源を切っているようだ。

(ご飯食べるとかじゃ、無いよ…)

僕は立ち上がって、家を出た。いよいよオレンジの色を増した夕日が、街のそこかしこを照らしている。オレンジの光と黒い影のコントラストを縫いながら、僕はこの辺で一番大きい来良総合病院を目指した。



*3

院内に入ると、もうすぐ面会時間が終わるからか帰っていく見舞い人の人々とすれ違う。看護婦さんが忙しそうにしていた。そういえば、静雄さんがここに入院かなにかしていても、部屋番号とかがわからない。病院ごと違う可能性もある。

居てもたっても居られなくて、こうして飛び出してはきたものの、僕に何かできるわけでもないし、行き場もない。僕は仕方なく、とりあえず女性用の入院室には居ないだろう、と以前園原さんが入院していた方面とは、別の棟を歩いた。

白い廊下を、ぼうっと歩く。歩き続けると、廊下を歩く入院患者の姿も少しずつ少なくなってきた。重病人が固められている場所なのかもしれない。

しばらくそうしていると、ぎくりとした。白い廊下の先に、夢と同じように、一枚だけ、オレンジ色のドアがあったのだ。

僕はもう一度あの夢を見ているんだろうか。状況が酷似しすぎている。どういうことだろう、と僕は走らないように気をつけながら、そのドアに向かう。すると、オレンジ色の正体がわかった。夕日のオレンジだ。

白い廊下の窓が一枚だけ開いていて、そこから入ったオレンジ色が、窓枠の形を真似て四角くなり、そのドア一枚だけを色づけていた。近くで見ると、子供が塗った塗り絵みたいにオレンジの光が、少しドアからはみ出しているのが見えた。

(こんな偶然、あるのかな)

夢の通り、白い廊下に一枚のオレンジのドアがある。僕はそこに非日常の気配を感じ取った。そうして、ドアノブに手をかける。夢とは違って、ひんやりとした温度を感じた。手のひらに感じる温度が、これが現実だ、ということをはっきりと示した。

ドアノブを捻ってみる。開いていた。鍵がかかっていないということは、ここに誰かしら入院しているんだろう。もう面会時間は過ぎてしまっているけど、白い廊下には看護婦さんの姿は無いし、僕はドアを開けた。

一応、ドア横の壁にも触れてみる。ざらざらとした感触と、エアコンで冷えた温度が手に馴染む。失礼します、と言ってから、ドアを開けて中を覗いた。部屋の中は蛍光灯がついていて、明るい。

やはり夢の通り、学校の教室ぐらいの広さの部屋に、簡素なパイプベッドが、等間隔に4つ置かれていた。しかしどれも、薄いカーテンで一つずつ仕切られている。

僕は視線を感じないことに勇気付けられ、部屋に一歩踏み入って、後ろ手にドアを閉めた。

そして一歩、二歩、忍び足でパイプベッドの傍まで行く。4つのベッドとも、カーテンの向うには、横になっている人影が見えた。

(キャベツ…ってことは無いみたいだ、さすがに…)

しんとした部屋の中で、僕は夢を思い出す。夢の中では、4つのベッドの上に、一玉ずつ、キャベツが置いてあった。
パイプベッドの数はあっているけど、さすがにリアルの病室にキャベツはありえない。見舞いの品ってことで、メロンはあるかもしれないけど。

(きっと、全部偶然なんだ)

ここがただの病室であることに気づいて、僕は非日常を諦めた。ああ、そういえば僕はここに静雄さんを探しに来たんだった。つい目の前にあった非日常に目がくらんで、好きな人のことを忘れるなんて、最低だな。僕は心の中で呟いた。

(ん?)

ため息をついた時、何気なく見た、一番隅にあるパイプベッドのカーテンに、隙間を見つけた。カーテンを閉め切っていないらしい。そういえば、この部屋はしんとしすぎている気がした。まだ夕方だし、4人全員が寝ているというのは考えにくいのに。

僕はもしかしたら、という好奇心で、そのカーテンの隙間からベッドの上を伺った。しかし、あの夢で見たような、丸いキャベツは見当たらない。
代わりに、何かの機材に繋がれ、死んだように眠っている男性が一人、横たわっていた。

(…あれ)

僕はその人に、見覚えがあった。何度か会話をしたことがある、新聞屋さんだ。家に押し入られて勧誘され、僕は根負けしてしまい、一ヶ月だけ新聞を買わされた。

二ヶ月目も勧誘に来たけど、やはり押し入った後、僕の部屋に家具が増えないことを哀れんで(それかお茶が出せなくて水道水を出したせい)か、それ以来勧誘には来ていなかった。

何でこんなところに居るんだろう。名前も知らないけど、僕は容態が悪そうなその人を放っておけなくて、静かにカーテンを開いた。

「あの…」

声をかけても、男性は眠っている。でも、寝返りの一つもしない。呼吸器に繋がれて息はしているみたいだけど、瞼を動かすことはなかった。シーツの隙間から無数のチューブが見えた。

僕はベッドに近寄って、男性に触れてみる。温度を感じた。暖かい、人の体温だ。とりあえず生きていることにはほっとした。だけどこれじゃ、まるで、

(植物人間だ)

ベッドに張られた、真っ白で清潔なシーツを見る。ここは病院だ。病院特有の、薬品みたいな匂いがしている。入院患者なんて珍しくない。でも食事の時間だろうに、この人は起きる気配すらない。

僕はお邪魔しました、と小声で告げてから、カーテンを閉めた。そして部屋をぐるりと見渡して、こそこそと、一つずつカーテンを開けてみた。

思ったとおり、皆、さっきの男性と同じような状況だった。植物状態の患者さんが集められた部屋、らしい。そして、皆が皆、僕の名前は知らない顔見知りで、最近見ない面々ばかりだった。

僕は気分を悪くしながら、この部屋がキャベツ以上に不自然なものばかりであることを確認する。そうして振り返ると、オレンジ色のドアは消えていた。

「え…あれ?…静雄さん?」

ドアの前に、静雄さんが立っていた。



*4

ドアが消えていると思ったのは、背が高いから、その姿に隠れてドアが見えないからだった。静雄さんは、いつものように、バーテン服を着ている。でも病院だから、煙草は吸っていなかった。

「竜ヶ峰、こんなとこで何してんだ?」
「あ、あの…静雄さんが、病院に居るって思って…あ、怪我!怪我とかしてないですか?!」

僕はここに来た理由を思い出して、白い床を歩き、怪我をしていないか確認するため、静雄さんに手を触れた。布越しに、温度を感じる。それに怪我はしていないようだった。

「怪我はしてねぇよ、つーか怪我ごときで病院こねぇしな」
「じゃあ病気とか…」
「それもねぇな、最近は」
「良かった…」

静雄さんの無事を確認して、僕は息をついた。そんな僕の頭を、静雄さんが苦笑しながら撫でる。

「お前、そんなことのためにここに来たのか?」
「え、はい…あの、静雄さんは、お見舞いですか」
「まぁそんなんだな。お前も見舞いに来たのかと思った」
「いえ、僕は…」
「そしたらこいつら殺すしかねぇからな」

そうなんですかー、と、言う前に、僕は静雄さんの言葉の不自然さに気づく。ここにはキャベツは無いのに、温度はあるのに、夢じゃないのに、何で静雄さんはそんな不思議なことを言うんだろう。

「…えっと、今、何て…」
「いや、最初は殺そうとしてたんだけどな。案外人間って頭打ったくらいじゃ死なねぇらしい」
「…?」

臨也さんはいないのに、いつにも増して物騒なことを言うなぁと、僕は単純な感想を持った。そして、嫌な予感がして、ベッドを振り返る。さっき確認したように、全員が植物人間の部屋だ。

「もしかして、静雄さんが」
「こいつらが勝手にお前の家あがんねぇように眠らしてんだよ」
「僕の家?」
「入っただろ、こいつら、お前の部屋」

僕は横たわっている人たちのことを、一人ずつ思い出す。

一番隅のベッドの、さっきの新聞屋さんは、確かに部屋に上げた。

その隣のベッドに寝ている、インターネットの回線を変えたとき来た業者の人も、室内に入って設定してもらった。

手前右側のベッドの人は、僕のアパートのある地域の宅配の人で、通信販売で頼んだ机を配達してくれた宅配の人だ。重いからと言って部屋まで運んでくれた。

左側のベッドには、去年の梅雨、雨漏りした時に修繕に来た工事会社の人が寝ている。

確かに皆、静雄さんと僕が出会ってから、僕の部屋に上げたことがある人たちばかりだった。でも、どうして、静雄さんが?というか何でそんなことで、こんな昏睡状態にされるんだろう。

僕はどう質問していいかわからずに、キャベツ畑に立ち尽くした。いささか混乱して、部屋から出ようとしたら、ドアの前に立っていた静雄さんにぶつかった。人の温度が感じられて、やはりこれは夢じゃないんだ、と怯む。

「あ、あの」
「ん?」

静雄さんはまるで壁みたいにして、僕を押し留めた。押しても引いても、出口は現れない。夢の通りだ。白い廊下、オレンジのドア、4つのパイプベッドに4つの、キャベツ。逃げ場はない。

(どうやって、帰ろう…)

出口の無い空間に佇みながら、僕は考えた。僕は背後に居る人たちの存在も、目の前に居る静雄さんの存在も、両方が恐ろしかった。静雄さんがあの人たちに何をしたのかもそうだし、あの人たちのこれからを考えるのも、そもそもその原因を考えるのも、恐ろしい。

だからとにかく、僕はこの真っ白い部屋から出たかった。ここから先の夢は見ていないけど、この部屋から出れば、あのオレンジ色の四畳半で、目覚める気がした。

「そういや、さっきの電話は何だったんだ?」
「…え…」
「しただろ、電話」
「あ、えっと、あの…夕飯、どうかなって…それで…」
「ああ、そういやそんな時間だよな。わかった、食うか」

静雄さんが、微笑んだ。何でそんなに、幸せそうな表情ができるんだろう。背後には貴方が人生を壊した人が、4人も横たわっているのに、そして僕はどうしてそんな中で笑顔を返せるんだろう。

それでも、僕は笑顔を見せた静雄さんに、ようやく恐怖が薄らいだ気がした。それか、麻痺したのかもしれない。とにかく僕はその真っ白い空間から出たかった。

「何食う?」
「あ、僕は何でも…」
「そうか、俺は…あ、たまにはロールキャベツとか食いてぇな。お前、作れるか?」
「……は…はい、材料あれば…」

じゃあスーパー寄って、お前ん家だな、と静雄さんが言う。想い人が初めて僕の家に来るというのに、僕はそれよりも静雄さんの背にある、ドアを開くことができることが、今一番嬉しいことだった。

(夢の話は、できない)

不思議な夢を見て、それで「不思議だな」って、静雄さんに一緒に首をかしげて欲しいと思った。それで電話をかけたのに、この状況は何だろう。

僕は逸る気持ちを抑えながら、ひんやりとしたドアノブを握る。きっとオレンジの光を浴びれば、と夢と現実をごちゃごちゃにしながら、ドアを開けた。

でも、期待していたオレンジの光はとっくに消え失せていた。もう夕日は落ちてしまっていたんだ。無人の廊下には、黒い闇だけが、まるで逃げ場なんて無いと言いたげに、佇んでいた。