チャットは駄目だ、九十九屋がどこから覗いてくるかもわからない。例え内緒モードだとしてもログが残るし、それを消去しても彼ならスクリーンショットか何かで抑えてくる。

メールも駄目だ、電子データの複製の手軽さは恐ろしいし、もしも、もしも頭にFw:がついたりしたらたまらない。想像するだけでアウトだ。

ラブレターなんてそんな実体のあるものはもっての他だし、口頭も駄目だ。どこで誰が聞いてるかわからない。携帯電話は簡易ボイスレコーダーになるし、インターネット中継でもされたら大変なことになる。

手話はどうだろうとかそういうことを考えたけど、結局一つの言語として表明することに変わりない。

これが人間への愛だったら、声高らかに全世界に向かってだって俺は叫べる。何ヶ国語でも叫んでやる。それなのにどうして帝人君への、それはなんでかこう言いにくいんだろうか。

恥ずかしいのだと思う。しかし恥ずかしいなんて感情だって久々のものだ。人間への愛なら、さっきも言った通り恥ずかしいだなんて欠片も思わない。不特定多数に向けたチャットでも繰り返し叫べるし、愛のメールだってスパムの勢いで送信できる。ラブレターでも書いてみせる。

けど帝人君が相手となると俺は速やかにパソコンを閉じて机を離れ、コーヒーを淹れたりシャワーを浴びたり仮眠を取ったりして、結局行動に移せない。「帝人君が好きだ」という感情自体が恥ずかしいから、それに触れることを避けるあまり、俺は愛の言葉をつぐんでしまう。

どうして人が恥ずかしいと思うかというと、そこに他者の視線があるからだ。自分以外の観察者の目。それがあるから、人は自分の行動に恥ずかしさという名のセーブをかける。

俺の人類愛はタガが外れてしまっているから、今更恥ずかしいなんて感じやしない。いっそ誇らしくさえ思っている。自分がどういう目で見られても、世間の目なんてどうとも思わない。そんな世間を構成する人間だって愛おしいと思う。

じゃあ俺の帝人君への好意に向けられる視線の、正体は誰なんだろうか。何故俺はこんなに恥ずかしいんだろう。世間の人間に、俺が彼のことを好きだと知られることが、そんなに問題だろうか。

そうでもないかもしれない。一人の相手を愛することと、ヒトという種全体を愛することじゃ規模も違うしキモさも違う。俺が帝人君を好きだなんて、世間様から見ればちっぽけなことだろう。たわいもないことだ。

けど、それでもやっぱり俺はキーボードから指を浮かせ、インクペンを手離して手紙を業務用シュレッダーにかけ、口を閉じる。恥ずかしいから。
それは帝人君の視線あるからだ。帝人君の周囲の世界からの視線があるからだ。彼に俺の好意が伝われば、もう取り返しがつかない。俺の文字や声が証人となってしまう。記憶を消さない限り、「やっぱ今のなし」は通用しない。

そう考えると慎重になっても当然じゃないか。「恥ずかしさ」は、失敗に関するリスクから自分を守るためにあるんだ。俺はヒトを愛するのに恐れはない。ハイリスクノーリターンでもかまわない。

「やぁ、帝人君」

俺は前を歩いていた帝人君に声をかけた。俺に気づいていなかった彼が振り向いて、あ!と少し驚く。そして立ち止まっている俺に向かって、帝人君の方から駆け寄ってくる。これは全て、俺が彼に下心を持っていないということを前提とした行動だ。彼のなんのことはない視線が、俺の好意を押さえ込む。

少し立ち話をして、俺から話を切り上げて彼から離れた。デートに誘うなんてことはできない。ノーリスクノーリターンでしかいられないんだ。もし彼に、俺の感情を気取られた上に振られたらと考えると、俺は両手をコートのポケットから出すこともできなくなる。ガラスの断崖に立たされるのはごめんだ。

臆病で奥ゆかしい俺は、今日も切らしたペンと便箋を補充し、シュレッダーの電源を入れる。切り刻まれていくラブレターを眺めながら、いつか俺からの視線で帝人君にばれる可能性を考慮し、サングラスとか買ったほうがいいかなあと考えて、すぐにあいつを思い出し、俺はシュレッダーを蹴った。