黒い鉄のレールを、ホームに向かって進む電車のライトが照らした。

細い線は俺たちの前に二本伸びて、その上にスピードを少しずつ緩めた電車の躯体が止まり、開いたドアからは幾人かが降りる。俺たちの立っているホーム側からも何人かが乗り込み、俺の横に立っていた帝人君も大きな荷物を揺らして一歩電車へ近づいた。

「逃げるんだ?」

俺が言うと、帝人君の足が止まる。俺はわざと挑発めいた言葉で、もう一度「逃げるんだ」と言い切る。

「そうですよ」

感情の起伏も見せずに、帝人君は短く返事をした。重そうな大きな荷物を持ち直し、また一歩電車へ近づこうとする。彼の靴の削れたつま先がホームの白線に触れて、俺は早口に次の言葉を撃つ。

「未練とかないの?君はあんなに、こっちでの生活を楽しんでたっていうのに」

手を伸ばせばすぐだけれど、俺は両手をコートのポケットにしまったまま彼を引き止める。帝人君はまた足を止めた。駅員は彼が乗車しないと踏んだのだろう、目の前でドアが閉まる。
そうして池袋駅23時25分発の電車は、重い体を押して俺たちの前からゆっくりと姿を消す。

実家行きの電車をこれで三本見送った帝人君は、両手に持っていた荷物を持ち直す。もうとっくに手は痺れているんだろう。

「重いなら置けば?」
「すぐに電車が来ますから」

次の電車には乗りますよ、という態度を示すために、彼は荷物から手を離さない。
次発の電車のアナウンスが、ホームに響く。五分後に、また俺は彼を引き止めるのだろう。最終まで引き止める気でいるのかは、自分でも決めかねている。数分後の電車を前に、彼は足を止めるだろうか。

池袋にやってきた帝人君は、ここでおおよそ一年の間に築いたものを、おおよそ一年かけて無くしていった。
彼の思想の軸だったダラーズも無くなって、ダラーズから繋がった人脈も少しずつ千切れて、とうとう彼は誰ともつながらなくなっていた。
実家に帰る帝人君を見送りにきたのが俺だけ、ということからも、それがわかる。

「ほんとに帰るの?」
「はい」
「帰ってどうするんだい?また理想のダラーズでも作る?」

帝人君は苛立たしげに俺を横目で見て、それから首を振った。

「そんなわけないでしょう」
「懲りたってこと?」
「違います。無理だからですよ」
「無理ではないさ。何も無いところからダラーズを発生させたのは君だったじゃないか」

帝人君が神経質に、重そうな荷物の持ち手を変える。

「形を作ったのは僕かもしれません。でも膨らませたのは臨也さんでしょう。僕が同じものを作れるとは思いませんし、作りません」

なじるような声色だった。俺のことを尊敬していた少年は、いまや俺の干渉に不快感を露にする。俺は後輩に嫌われてばかりだなあ、と小さく苦笑した。

ややあって、再びアナウンスが鳴る。黒い鉄のレールが、にわかに光を帯びた。向かってくる電車の左右のライトが目を打つ。

「帰らないでよ」

俺がそう言うと、帝人君は「もう僕には失望しているくせに」と吐き捨てるように言った。正直そうだし、彼にはもう戦争を起こす引き金としての役割も何も期待できない。盤上から零れた駒でしかない。

けれど俺はこうして、この無価値な少年を引き止めるために時間を割いている。レールの上をすべり、23時37分の電車が目の前に到着する。これで四本目の電車だ。

「もう終点なんですよ、僕には」

池袋での生活の終わりに、行き着いてしまったんだと、彼は言った。もう行き止まりなのだと、この先には行けないのだから戻るしかないんだと、重そうな荷物を地面すれすれに持って、帝人君は言った。

じゃあ俺がレールを継ぎ足してあげるよ。君が無くした物を奪い返せるような、取り戻せるような方向に俺がレールを敷き詰めてあげるよ。俺が言うと、帝人君はやっと小さく笑った。

「それじゃ結局、きっとおんなじところをぐるぐる回るだけになっちゃいますよ」

玩具のプラレールみたいに、と帝人君は今日初めて子供らしい顔をしてみせた。どこにも行けなくなるだけですと言う帝人君を、俺の謀る天国に連れていってやりたいと、ほんの少しだけ思った。