*1



君の靴を隠した。

折原君はそう言った。女子の大多数が好意を寄せつつ、怖くて手が出せない学校一の問題児は、機嫌良さそうに微笑んだ。二人きりの教室に照る赤い夕日が、彼の半身を照らす。

帰り支度をしていた僕は最初、その言葉の意味も意図もわからず、ぽかんとした。が、数秒後に僕は靴を隠されたのだと、意味を飲み込む。

「えっと…困るんだけど…」
「困るだろうね。靴が無いと、帰れないんだから」
「う、うん、だから返してよ」
「やだ」

折原君はそう言って、女子の9割が喜ぶような、柔らかい微笑みを見せた。同性ながら、整った折原君の容姿にどきりとする。

でも笑顔は置いておいて、僕は嫌がらせされているようだ。しかし、いじめにしては初歩的すぎる。付き合ってた女子を廃人にしたとか、絡んできた上級生を全裸で教室に張付けたとか、その手の噂話に事欠かない折原君がすることとして、幼稚すぎる。

(大体、僕、何もしてないんだけど…)

理由の無いいじめなんてありふれているだろうけど、折原君が何の変哲もなく、今まで何の関わりもなかったクラスメイトの僕に対してこんなことを仕掛ける理由が見当たらない。

僕は僕の靴を隠したという折原君に対して、どう言葉を発したらいいのか、彼を目の前にして迷う。クラスメイトなんて、近くて遠いものだ。今まで一度も名前を呼び合ったこともない相手に、僕は躊躇する。

そんな僕を見かねてか、痺れを切らしたのか、きまぐれかわからないけど、折原君は少し首をかしげて、からかうような目で、僕を見る。

「俺、前から思ってたんだけど、竜ヶ峰君ってさ」
「な、何?」
「俺のこと、見すぎじゃない?」
「…え…」

初めて名前を呼ばれたな、苗字呼びか、いや僕も彼を苗字で呼ぶけど、という考えは全てさぁっと意識から消えて、僕はとてつもない恥ずかしさを感じていた。

確かに僕は、何かと目立つ彼のことを目で追っていた。まずあまり学校に来ていないから登校してきた日は珍しいものを見る目を向けていたかもしれない。そんな風に見られて、良い気はしないだろう。それについての仕返しに、僕の靴を隠したんだろうか。

「ごめん」

僕は謝った。不快な思いをさせていたら、それは本当に申し訳ない。しかし僕の謝罪とは裏腹の返事が返ってくる。

「いや、いいんだけど。それは別に。他の奴だってそんなもんだし」
「じゃあ、何で、靴…」
「俺なりのサービスだよ」

靴を隠すことが、サービス?僕はその疑問をそのまま、表情に出した。すると折原君が笑う。高校生にしては少し大人びた笑い方だった。大人びたというか、何だか深みのある笑い方だった。

「君、俺のこと知りたいんでしょ?」
「……!」
「あ、図星って顔だ。君、本当すぐ顔に出るよね。観察しやすいことはしやすいけど、わかりやすいのって結構飽きるよ」
「ご、ごめん」
「あっは、何で謝るの?謝れば何でも丸く収まると思ってるんだ?君の今までの16年間では、謝ればいつでも窮地を脱していられたのかな?でも残念、俺は謝罪なんて一切意に介さないタイプの人種だから」

女子の大部分が好む、きれいでよく通る声がつらつらと話す。言葉には棘がちりばめられているのに、その美声のせいでそれに気づくのが遅れる。僕は謝るというありきたりな行為を封じられ、どうしようもなく折原君の言葉を待つ。

「君が俺のことあんまり見てくるからさ、俺も君のことを見たりしてたんだ」
「え…?」
「君の視線ってさー、ちょっと周りとは違って、野次馬根性であることは変わらないんだけど…他の奴の、腫れ物に触るとか俺の顔が好きとかそういうんじゃなくて、何か、期待してる感があるよね」
「期待してる、感…」
「怖いもの見たさ、かな。俺が何かとんでもないことをしてくれないか、期待してない?そして自分の日常を変えてくれるんじゃないか、とか考えてない?君の視線からは保身が感じられないんだよね。警戒とかじゃなくて、うん、好奇心?」

折原君の言うことを、僕は一つずつ心中で響かせる。そして、それらすべてが僕の意識と合致していることに、僕は焦りを感じる。折原君はどこまでも、僕の心を読んでいるような、そんな不安感がじわりと広がった。

僕は穴が開くほど折原君を見ていたが、僕は彼のことをかけらも知らない。一方、折原君は僕の考えを掌握してしまっている。僕は不安感と共に、目の前の同い年のクラスメイトの得体の知れなさに、素直に怖いと感じた。

「また、図星ですって顔してるよ、竜ヶ峰帝人君」

赤い夕日は落ちかけている。下校時間を過ぎているから、蛍光灯の主電源も切られているため、二人きりの教室は薄暗い。折原君の顔色が見えにくい。見えたところで、彼の心中を読み取ることはできないと思うけど。

でも、顔が見えにくくなると、目の前に居るというのに匿名性が僕と折原君の間にもやがかかるように現れる。僕はそれに無意識に勇気付けられ、少し語気を強めた。

「それで…僕に、何の用があって、靴を隠したの?」
「だから、サービスだよ。俺のことを知りたいけど、俺に話しかけることもましてやちょっかいかけることもできない見てるだけな竜ヶ峰君への」
「ど、どういう…」

竜ヶ峰君ってクラス委員なんてやってる割に、頭悪いんだね、と折原君が笑った。表情は見えないけれど、人を馬鹿にしているのに朗らかな声だった。その声が、近づく。折原君がこちらに歩いてきたんだ。
僕は後ずさりたかったけれど、机に阻まれてそれは叶わなかった。

「俺のこと、教えてあげるって言ってるんだよ」
「教えて、くれる、って…それと、僕の靴を隠すの関係ないんじゃ…」
「そうかな?俺が思うに、竜ヶ峰君って退路を断った方がずっと自由に動けるタイプの人種でしょ?君はとっても悲しくなるくらい鈍感な高校生かもしれないけど、断崖絶壁を背にした君は自分に素直になれるし、自分の本性に気づけるんだよ。俺の分析ではね」

だから、帰れないように、君の靴を隠した。折原君はそう言った。僕が、逃げられないように、靴を隠した。

僕はすぐ目の前に居る折原君の目を見た。暗がりだというのに、その目だけははっきりと見ることができた。折原君って普通より赤い目をしているんだな、夕日みたいだ。僕は一つ、折原君のことを知る。

「で、俺の何を知りたい?」

折原君はそう、女子でもビクつくような、百年の恋も冷めるような、性悪そうな声で僕に問いかける。けれど僕は、明らかに高揚していた。それまで知らなかった、折原君の、どす黒さを思わせる、本性を少しでも知りたい。非日常を、知りたい。

僕は後ずさることも忘れて、彼の赤い目を見た。

「折原君は、」

僕の質問攻めは、日付が変更するまで、続いた。



*2



思いがけず、竜ヶ峰君は面白い子だった。この退屈なクラスに、まさかあんな原石がいるとは、俺の審美眼もなかなか捨てたものじゃないなぁ、と自画自賛する。

うんざりするほどの、俺に向けた周囲からの視線の中で、彼だけが特異だった。感覚的に、有象無象とは違う目をしていた。
彼の青みがかった瞳は、俺を憧憬の目では見ない。恐怖や侮蔑の目でもない。ただ、俺を観察していた。マウスを見るみたいに、蝶々の模様を追うみたいに。

(似た者同士なんだよ、俺たち)

俺は、昨夜のことを思い出して自然と笑みを作る。隣をついて歩く女が、そんな俺を見て機嫌が良いと錯覚したのか、腕を抱く。それを跳ね除けて、頬を平手で叩き、ぐらついて倒れかける女の顔に膝蹴りを食らわすと、とてもすっきりした。

「ごめん、いきなりだったから…びっくりしちゃって」
「…そ、そうなの…?そ、そうなんだ?えへ、びっくりしちゃった」

俺は申し訳無さそうに言って、地面にしなを作って座り込む女に手を差し出す。立ち上がらせて、スカートについた砂を払ってやると、女は口端から血をたらしながら、幸せそうにした。

この女は頭がおかしい。出会った当初は常人だったんだけれど、俺が色々実験的な恋人付き合いをしてみたら、それに上手に適応してみせた。観察は楽しかった。けど、この女は少し、俺の思い通りに変わりすぎて、飽きが来る。

(突然変異が欲しいなぁ)

女と駅の階段を降りながら、もう一度昨夜のことを思い出す。竜ヶ峰帝人君は、俺に数時間、数多くの質問を投げかけた。俺にまつわる噂話についてや、よく調べたな、と言えるような事柄についてまで。彼はきっと今まで溜めに溜めていた疑問と、好奇心を俺にぶつけた。

平和なクラス委員にしては、なかなか込み入った事情にもある程度精通していた。彼の知的欲求は、きっと俺とそこまで変わらない。俺と違って下衆ネタは嫌うし、良心も一応あるみたいだけど。

俺は人間というものについての愛ある極度の知りたがりで、彼は人間が生み出す「非日常」に対して渇望する知りたがりだった。

だけれどきっと、それだけの人間なら俺は数時間も彼に付き合って情報を垂れ流してなんていなかった。彼に興味を惹かれたのは、何より彼と俺が似ていると思ったのは、質問を開始して30分後のことだった。

「で、たまたま俺がそこに居合わせたからそう噂されただけで。俺は西院先生の写真を撮ったわけでもないし、脅してもいない。不本意な噂だよ、全く」
「そうなんだ…」
「うん。で、次の質問は?」
「折原君は、」
「うん?」
「さっきまでの質問で、いくつ嘘をついたの?」

じっと、あの青みがかった目が、俺に向けられた。値踏みされるようだった。何の隔たりもなく、彼は俺の目の前にいる。なのに、硝子の向うからこちらを覗くように、観察していた。

彼は敵意も好意もなく、単に俺という事象を、観察していた。どこにでもいる、平凡で非力で無力で一般的で非個性な同い年の少年に、そんな目を向けられた。

ガラスケースの中にいる観察体である自分を妄想して、俺の脳はドーパミンやらの快感物質を分泌していた。新種の物質を発見した研究者みたいな、突然変異の珍獣を捕獲したハンターみたいな。

きっと、彼も俺を見つけたときにそう思ったんだ。退屈なクラスに、原石がいるって。

(原石同士、切磋琢磨しないとね)

とりあえず彼に会うためには高校に行かなくてはならないので、俺は昼すぎになったけれど、来良学園に到着した。校門で女と別れる。女は遅刻のくせに別れ難そうにしたけど、校門に居た用務員に「西院先生、遅いじゃないですか!」と注意されると、慌てて職員室の方へ駆けて行った。

その背中を見送りもせず、俺は自分のクラスを目指した。



*3



例の、靴を隠された日から、折原君と話をするようになった。彼の取り巻きからは少し不審な目で見られていたけど、僕の方こそ折原君を取り巻く人々に興味の目を向けていたから、それは仕方ないと割り切った。

折原君は、何があったのか以前よりは授業に出席していた。そして彼が学校に登校する分、クラスメイトは元より、学年、学校、そして教師陣までも、何か意識しているような、不思議な気配がしていた。皆彼を恐れているようでもあり、警戒していた。

でもきっと、ただ一人、僕は折原君がもたらす、そういう不穏な空気を好ましく思っていた。折原君は他とは違う。もちろん、彼は皆と同じ体のつくりをしている。けど、皆より、特別スタイルが良いし、恵まれた外見をしている。

でもそういうことではなくて、彼の思考が含有する異質性は、僕が今まで見たどんな人間よりも抜きん出ていた。僕は、そんな彼を見ているのが楽しかった。

しかし、あの折原臨也が、僕なんかのための見せ物でいることを、そのまま済ますはずがなかった。


「…何してるの?」
「やあ、竜ヶ峰君。これから帰るの?」
「え、うん…折原君は?」
「俺は、これを仕掛けたら帰るよ」

放課後の教室で、折原君が僕の机に座っている。机の上には、僕の鞄が乗っている。その中に、折原君が手を突っ込んで、何かしていた。
人の鞄を本人の前で漁っているのに、あまりにも堂々としているものだから、僕は怒るという選択肢も忘れて素朴に質問を繰り返した。

「それ、何?」
「隠しカメラだけど?」

折原君は、鞄から手を抜き出して、握ったものを見せた。指先ほどの小さい黒い塊に、何本かケーブルが繋がっていて、それが鞄の底にまで伸びている。

「隠しカメラ…って、何それ!?盗撮ってこと!?」
「そうだよ。これマイク一体型だから、盗聴でもあるね。あ、底につけておくから水溜りに鞄落としたりしないでよ?竜ヶ峰君ってちょっと抜けてそうだし、心配だな」
「え、いや…つけないでよ、そんなの…っていうか、何のために、僕の鞄に隠しカメラをつけるの?」

僕は折原君が座る、自分の机に近づいた。僕の鞄は、底板が外されて中に細工がしかけられている最中だった。こんな凝った仕掛けを施す同級生に少し驚きつつ、彼の行動の理由が見当たらなくて、内心焦る。

そんな僕を見て、折原君は以前したように、少し首をかしげて、からかうような目で僕を見る。

「それは、竜ヶ峰君のことを知りたいからだよ」
「え?」

折原君は、そんなことを言った。僕は少なからず驚く。隠しカメラを仕掛ける理由として、妥当なものでもないし、何より、折原君は僕のことなんて、とっくに把握していると思っていたからだ。

以前、彼の観察による指摘は、僕の考えも意識も、気づいていなかった自分の本性さえ、僕に自覚させた。僕が彼に、特別な日常をもたらしてくれることを期待していることだ。心の片隅にあった、僕の無意識と呼べるものを、彼は簡単に探り当てて、提示してみせた。

それくらいの洞察力、そして詳しくは無いが彼の情報収集能力があれば、僕の大体のことだって知っているんじゃないだろうか。というより、彼が僕に興味を持つということが、そもそも僕にとっては事件なんだけど。

「僕を知りたいって…、そんな、僕には調べるほどの秘密なんて無いよ」
「そうかな?まぁ、確かに、俺は君をどこにでもいる、平凡で非力で無力で一般的で無個性な同い年の少年だと思ってるよ。何か突出した特徴があるわけでもないし。クラス委員でもなければ、普通にクラスの隅に埋もれているような子だな、というのが素直な感想」
「だったら…」
「でも、本当にそうなのか?ってことは、まだわからない。それを調べるんだよ。もしかしたら君は、俺の知らないところで誰もがたじろぐような悪事を行っているかもしれない。可愛い顔して、誰かを騙したりたぶらかしたりしてるかもしれない」
「な…悪事って…?そんなこと、してないよ…」

じゃあ、良いじゃないか、隠しカメラをしかけても。と、折原君が隠しカメラを鞄の底に戻した。何が良いのかわからないが、後ろめたいことをしていないなら見られても良いじゃないかということらしい。僕は折原君の手をとる。そして鞄の中に設置されていた小型の機器を剥ぎ取って、教室の床に捨てた。

「僕は何も悪いことなんてしてない、けど…こういうの仕掛けられて良い気はしない」
「俺は別に君を良い気にさせようってつもりもないし。それにさ竜ヶ峰君、俺は君に俺のことを教えてあげたのに、俺が君について知ることができないっていうのは不公平じゃない?」

僕は、折原君の言葉に、う、と詰まる。以前、彼に靴を隠された際、「教えてあげる」という折腹君に僕は何時間も質問攻めした。夢中になっていて、彼を質問から解放したのは深夜のことだった。

気づけば、あの日、彼の瞳のようだと思った夕日はとっくに姿を消していて、僕と折原君は真っ暗な教室で、問答を繰り返していた。彼があくびをしなかったら、おそらく僕はずっと時間を忘れて、終わることなく質問を投げていただろう。

そういう負い目もあるし、その後施錠された校舎から抜け出す時に手伝ってもらった恩もある。僕はここで折原君の、「僕を知りたい」という要求を突っぱねることはできなかった。元より、僕には彼を拒否できる度量もないのだけれど。

「…わかったよ。僕のことを、教えるよ。でも、盗撮も盗聴もやめて欲しい」
「へぇ。じゃあ、この前みたいに俺が質問していく形にする?」
「うん…でも、とりあえず、今日は一緒に帰ろうか」
「は?」
「帰りながらでも、十分話せると思うよ」

僕は鞄の底を見て、細工を全部取り払ったことを確認する。そして教科書やノートを詰めて、ジッパーを閉めた。折原君は相変わらず僕の机に座っていたけど、僕が行こうよ、と促すと、少し苦笑しながら、立ち上がった。