僕の言葉を最後まで聞かずに、臨也さんは「俺、玄関の鍵閉めたっけ」と言った。
「ねぇ、どうだったかな」
「知りませんよ」
「あー、何か凄い心配になってきた。どうしようね、鍵開いてたら」
「泥棒とか、入ってるかもしれませんね」
「やだなー」
「じゃあ、帰りますか?」
僕がそう提案すると、臨也さんは彼の家の鍵をドブ川に投げ捨てた。高級ブランドのロゴが刻まれたキーチェーンがきらきらと光る弧を描いた後、鈍色なのに油で七色に輝くドブ水の中に落ちていく。
臨也さんが持っているビール缶を一度呷った。喉仏がこくこくと動く。飲みっぷりのいい美人だなあ、と僕は少し親父くさいことを考えてしまう。
ビール缶を軽く飲み終えた臨也さんは、僕らの居る橋の手すりに空っぽの缶を置いた。乱暴に置くものだから、空洞になったアルミの筒の中で、音が響く。
「もう一杯飲みたいな。ちょっと買ってきてよ」
「成人してないので売ってくれませんよ。それに、まだ昼ですよ」
「飲んでないとやってられないさ。別れ話なんて素面でするものでもないだろ」
「それは偏見だと思いますけど…」
臨也さんは空っぽのビール缶にまた口をつけた。酔っているのだろうか。それか少しは、動揺してくれているのだろうか。
僕から切り出した別れ話は、遅々として進みやしない。酔っているのか、それか少しは、別れがたいと思ってくれているんだろうか。何もかも遅すぎるけれど。
「帰りましょう」
終わらそうと、僕が言う。と、臨也さんはドブ川を指差した。
「鍵落としちゃったから、帰りようがないんだよ」
「いやいや、落としたっていうか、捨ててましたけど?!っていうか、鍵開いてるかもしれないんですよね」
「いや、閉めた。俺閉めたよ、間違いなく。がっちりとツーロックしてきたよ」
「どっちなんですか」
「閉めた閉めた。もう鍵無しじゃあ帰れないよ」
空き缶をひらひら振って、臨也さんが言った。そうして、赤みも何もない、無表情な顔で僕を見る。
「だから、君の家に帰ろう」
酔ってやしないんだ、この人は。僕はそう思い、そうしてその言葉にぐらついた。頭の中で、もういいじゃないか、と誰かが言う。もう少し頑張ってみればいいじゃないかと、今別れなくたって、やり直せるかもって、無責任な僕が言う。
それは仕方が無いんだ。僕はこの人のことをどうしようもなく好きだし、この人はどうしようもない人だけど、きっと僕のことを好いてくれていることは間違いない。
もうちょっと我慢してみればいいんだって、考え直せって、そういう考えがちらついていくる。鍵を(自発的に)失くした臨也さんを部屋に招いて、泊めるかして、そしてセックスとかしてしまえばまた元通りだ。
「(でも、それじゃダメなんだ)」
僕は鈍色と七色のドブ川を見下ろした。混濁した色に、本来の澄んだ水の気配は感じられない。いちばん最初は、澄んでいたはずなのに。何がどうしてここまで流されて、こうやっておかしな色になってしまったんだろう。
「鍵、かかってるんですね?」
そうだよ、だから帝人君の家に入れてよ。臨也さんの言葉を最後まで聞かずに、僕はドブ川に飛び込んだ。
ざぶ、と足が水の底のようなものを踏む。と、それは底ではなくてヘドロで、さらに足が沈んでいった。冷たくてぬるついた水と泥が靴の中へ裾の中へと入り、僕の皮膚にまとわりつく。
ドブ水のきつい臭いが鼻をつく。むせそうになったけど、僕は意を決して両手をドブの中に突っ込む。
ざばざばと水のような泥のような油のようなものを掻き分けて、水底をさらった。そこかしこにガラスの破片やら針金やら、自転車の車輪がひん曲がったものやらが潜んでいて、それにひっかけて僕の手に傷ができた。その傷からドブ水が滲みて、酷い痛みだった。
橋の上に居る臨也さんの方を見上げないでいたし、声もしなかったから臨也さんは帰ってしまったのかもしれない。僕はただ無心でドブ川の鈍色の水を跳ねさせた。
僕の手のひらから流れる赤い血がドブ水に混ざるけど、鈍色はちっとも赤みを増さずに、無表情なままたっだ。
腕時計も水に浸かってしまっていて、気づけば針を止めていた。だから正確な時間はわからないけれど、しばらく経って、僕は高級ブランドのロゴが刻まれたキーチェーンを拾い上げた。ロゴの刻まれた溝に泥がへばりついていて、僕は自分の服で軽く拭いた。
ようやっと顔を上げると、臨也さんは帰っていなくて、まだ橋の上に居た。橋の手すりにビールの空き缶が三本に増えていた。
ドブ川から上がって、橋の上を歩いていく先から、僕は水溜りを作った。不思議なことに水溜りは鈍色でも七色でもない。
「臨也さん、落としましたよ」
臨也さんが投げ捨てた彼の家の鍵を手渡す。臨也さんはビールを三本空けていたみたいだけど、やっぱり赤みも何も無い、無表情な顔で僕を見た。
磨かれたきれいな爪をした手の平に、ドブ水に濡れたキーチェーンを落とす。
「これで、家に帰れますね?」
僕が言う。臨也さんはしばらく鍵を見ていた。
「別にいらないんだけど」
「え?」
「だって玄関開いてるし。急いで出てきたから」
「…どっちなんですか」
「さあ?わかんない。俺酔っ払いだし」
酔ってやしないくせに、臨也さんは言った。酔ったフリして泣こうとでも思ってくれたのかなと、橋の手すりの上の空き缶を眺めて、思った。