エレベーターに乗ったら、最上階のボタンを押す。地球の重力に逆行するガラス張りの箱が、ぐんぐんと高度を増していった。エレベーターのランプが右に移動していくたび、新宿の街の光が足元へ消えた。

エレベーターを降りたら、関係者以外立ち入り禁止の立て札を抜けて、階段を上る。埃が積もった階段の床には、僕のものではない靴跡が、一人分残っていた。数階分の階段を上り、行き止まりにあるドアを開ける。許可なく立ち入り禁止の貼り紙はあるが、鍵はない。

ドアの向こうは屋上だった。僕の胸元ほどの柵の隙間に、新宿の夜景が見える。ビルが乱立する中でも、このビルは高い部類のものらしく、眼下の道路が細い光の線のように見えた。

屋上を見回しても姿が無いので、僕は階段を上って切れた息を整えながら、屋上から伸びるアンテナ柱へのはしごに足をかける。
はしごは赤錆まみれで、じゃりじゃりと手のひらに絡み付いた。

強いビル風に煽られたら、落ちてしまうんじゃないかと不安に思う。が、手と足は止めずにアンテナの立つ柱へよじ登った。屋上さえ足元に遠ざかって、新宿のネオンの光が遠くまで眺められた。

はしごを上り終えると、障害物のない目の前の夜空に、大きな月が見えた。そして月のすぐ下に、臨也さんがいた。

吹きさらしの彼の隠れ家は、夜風が吹きすさんでいる。彼の黒いコートと、黒い髪が揺れていた。

「やあ」
「はあ」

月を見上げていた臨也さんが、僕を見る。アンテナ柱の頂上は、一畳もない。少し足を踏み外したら、下に落ちてしまいそうで、僕は立つのは怖くて座り込んだ。

高いところが好きな臨也さんは、時間が許せばここに来ているらしい。最初に連れてこられた時には驚いたけれど、慣れるものだ。

「ほんと好きですね、ここ」
「別に好きじゃないよ」

好き嫌いじゃないんだよ、と臨也さんは続けた。背にしている月の光が強すぎて、僕は夜なのに眩しささえ覚える。月光が臨也さんの白い肌に反射する。見ているとちかちかした。不思議な光だ。太陽の光を浴びすぎたら日焼けするけど、月の光だとどうなんだろう。

「(日焼け…いや、月焼け、かな?)」

くだらないことを考える。でも僕が変な思考に陥るほど、月と臨也さんという組み合わせは神秘的で、どこか非日常の様相を漂わせていた。

「帝人君は」
「は、はい」
「高いところは好き?」

風が吹いて、臨也さんは髪を抑えた。上には夜空が広がっている。ここには、空と自分を隔てるものが何も無い。代わりに地上が果てしなく遠い。こんな所まではるばる来るのなんて、よっぽどの高所好きだけだろう。ただし僕は高いところに来たいから来たというわけでは、けしてないんだけど。

「僕は別に…好きではないですけど」
「へえ、じゃあ好きでもないのに、何でこんなところまで上ってくるんだい?」
「…それは臨也さんもですよね?」

別に好きじゃないって言ってたじゃないですか。揚げ足取りみたいな言葉を、ついつい吐いてしまう。この人は、高いところが好きに決まってる。でなければ、街中で一段でも高いところに立ったり、子供みたいにブロック伝いに道路を歩いたりもしない。見下ろしたり、景色を俯瞰するのが好きなのかもしれない。

「(それか、猫が高いところを好むみたいなか)」

好き嫌いに大した理由なんて要らない。たとえば何故僕がこんな所まで、手を赤錆で汚してまで上ってくるかだって大した理由は無い。強いて言えば、ここに臨也さんが居るだろうという憶測があったからだ。

「繰り返しになるけど、別に好きで来てるわけじゃないんだよ」

それでも、臨也さんは否定した。コツコツと音を立てて、座り込んでいる僕の傍までやってくる。こんなに高いところなのに、怖くないのだろうか。高いところが好きな人は、恐怖心も抱かないのかもしれない。

「だから、好きでこんな面倒なとこまで上ってるわけじゃないんだよ」
「…何も言ってませんよ?」
「どうせ高いところが好きなんだろって顔してるから」

臨也さんが少し腰を屈めて、僕の顔を覗き込む。顔が近くなるのがなんとなく気恥ずかしくて、僕は座ったまま背を仰け反らせた。しかしからだのバランスを崩しそうになって、慌てて手を突く。思わずビルの下を見てしまって、地面の遠さに、また気を遠くした。

「好きじゃないなら、何でこんな高いところに…」
「引っ張られてるんだよ」
「は?」

僕を見下ろしたまま、臨也さんが、背後にある月を指差す。

「月に」

臨也さんの指の爪が月光を弾く。大きな月を背景に、臨也さんは立っていた。夜空と臨也さんを阻むものは何も無い。僕は彼の白く光る指先を見つめながら、気の抜けた声で質問をした。

「どういう」
「月に引っ張られて、いやいや高いところに来てるのさ」

子供だましだ。僕は笑うところなのかと思ったけれど、うまく顔を作れない。冗談でしかないはずなのに、月と臨也さんという組み合わせは不思議と、酷く説得力があった。僕は座り込んだまま、月光に照らされた彼の細い体を見上げていた。

「月にも引力があるんだよ」
「それは、知ってます」
「今日は半月だね」

臨也さんが月を見上げる。僕たちの頭上に浮かぶ月は、大きいけれど半分は姿を隠していた。

「満月の時、月の引力が最大になるんだ」

月の白い光が、真っ黒な臨也さんの体を撫でている。僕は臨也さんの影で、未だに座り込んでいた。

「だから、満月になったら、もっと高いところまで引力に連れて行かれるかもしれない」

まさか、と笑い飛ばそうとして、それでも僕は笑えていなかった。ここから、眼下の地上よりも遠くにある月まで、どれくらい距離があるとか、いちいち考えれば全否定できる話だ。見え透いた嘘だ。でも僕は、どこかで信じかけていた。

だからこそ僕は、臨也さんの服を掴んでいた。立つのも憚られるほどの高所だったのに、自然と腰が浮いていた。膝は少し笑っている。

「どうしたの?」

臨也さんが、意地悪そうな目で僕を見下ろしている。やっぱり嘘だ。当然だ、まんまと騙された。顔が一気に熱くなるのを感じた。

「…ふわふわ飛んで行かれたら、困りますから」

まるで風船みたいだと臨也さんが笑う。その笑顔すら憎らしかった。月の引力と綱引きをするように、臨也さんの服を引っ張る。転んでしまえばいい、と強く思った。