空に残る痕跡を見つけて、「静雄さん、飛行機雲ですよ」と僕が話しかける。前を歩く静雄さんは、ああ、と返事をしてくれたのに空を見上げてはくれなかった。足を止めることもなく静雄さんは歩いていくので、僕もそれについていく。

静雄さんは仕事が終わり自宅に帰っている最中で、そして僕はその静雄さんの自宅へ行く道中で、目的は彼と寝ることだ。もう何回か行っているから、道はわかる。だけど僕は静雄さんの後ろをついていく。

「夕飯は何か食べましたか?」
「適当に」
「そうなんですか、僕はまだなんです」
「そうか」

そっけない静雄さんの返事で、会話は終わった。静雄さんはやりとりの間、一度も僕の方に顔を向けることはなかった。きっと普通の人なら拒絶ともとれる態度だろう。ただ淡々と家路を急ぐ静雄さんは、彼のものよりも狭い僕の歩幅に合わせることもない。僕に関わりたくない、そんな顔で、ただ歩いていく。

けれどそのくせ、ちゃんと僕がついてきているかちらちらと伺うのだ。僕を引き離そうと思えば、全力で走るなり、踏み切りや赤信号のある道を通るなりすればいいのに。

静雄さんは、僕についてきて欲しいんだけど、ついてこいとは言えない。僕にそう要求することを、何かを願うことで誰かと関わることを恐れている。

「(どんなに強い力を持っていたって、関わった人全員を傷つけるわけじゃないはずなのに)」

例えば彼が普段一緒に居る仕事の上司とか。でもそういった存在は、静雄さんの人生にとって希少すぎる存在なのだろう。彼は暴力が嫌いだし、暴力を振るう自分自身も嫌いだ。「俺に暴力を振るわせやがって」というキレ方をしているのを見たことがある。ただの逆ギレととっても間違いじゃない。だけど、悲鳴にも聞こえた。

ぼうっと考えながらついていくと、いつの間にか静雄さんのマンションにたどりついていた。ここでもやっぱり僕と静雄さんは横に並ぶこともなく、一列に歩いていく。これから彼の家にいくというのに歓迎するそぶりは何も無い。迷惑がられていると受け取っても仕方ない。

でも、静雄さんは「ついてくるな」とは言わない。ついてこい、と言わないのと同じようにだ。静雄さんは、加害者になることを恐れるあまり、暴力を振るうきっかけ、つまり他人との接触を回避しようとしている。誰かと関わることで「加害者にさせられるかもしれない」と、身構えているんだ。

「(そんなの被害妄想だ)」

いや、どちらかといえば加害妄想なんだろうか。防衛本能のようなそれは、悲しみに先回りして彼にストップをかけているのかもしれない。

ふと、マンションの廊下から、また空を見上げるとさっきと同じように飛行機雲がたなびいていた。飛行機雲の線に沿って、かき回された雲が珍しい形に変わっていて、僕は写真でも撮ろうかと足を止める。

鞄から携帯を取り出そうとした時に、ふと前を歩いている足音の様子が変わったことに気づいて、ぱっと静雄さんの背中を見る。相変わらずこちらに背を向けて、どんどんと歩いていっているけど、かすかにスピードが緩まっている。それはきっと僕への猶予なのだろう。

僕は携帯から手を引き、ぱたぱたと聞こえるように廊下に足音を響かせて静雄さんの後を追う。

「雲の形が珍しかったので、写真を撮ろうかと思ったんです」

僕はそう言い訳のようなものを言ったけど、静雄さんは返事をしなかった。
そうして僕が静雄さんの背中に追いつく前に、彼は自宅へたどり着く。鍵を開けてそのまま、振り向くことなくパタンと玄関の扉は閉められた。

ようやく静雄さんの部屋の前にたどり着いた僕は、念のため携帯電話の電源を切った。最中に鳴ると気まずい。これから人一倍臆病な想い人と寝るのだから、あまり驚かせないようにしなくてはいけない。

少し不便だけど、そうやっていつも怯えている静雄さんが、他者を傷つけることで傷つく恐怖より、僕に触れたいという欲望が上回っていることを確かめられる瞬間は大事にしたい。

携帯画面の消灯が落ちると、真っ暗な画面が鏡のように空の飛行機雲の線を映した。部屋を出るころには雲も散っているだろうな、と思いながら、僕は鍵もチェーンもかかっていない玄関の扉を開けた。