時刻は午後十時をまわろうとしていた。僕は来良学園の裏門の柵を飛び越え、夜の暗闇に静まりかえった校内を歩く。途中、また帝人先輩からのメールを着信した。『プールで待ってるね』とだけ、書かれている。

なるべく足音を立てないように校舎の傍を通り、授業用のプールへの階段を上る。深夜だけど、少し高台にあるプールには池袋の街の灯りが少し降り注いでいて、湖みたいなプールの水面に反射している。

あたりをざっと見渡す。平凡な25メートルプールには、プール開き前でも水泳部のために綺麗な水で満たされており、掃除も行き届いている。しかし、辺りが暗いためにプールの水は透明さを失って、重く冷たい印象を受けた。

「帝人先輩?」

小声で、僕をここへ呼びつけた人間の名前を呼ぶ。するとプールサイドの方から聞きなれた声で名前を呼ばれた。見ると、帝人先輩が飛び込み台の傍に座っている。僕はその方に歩き、帝人先輩の目の前に立った。

「青葉君、ごめんね呼び出して」
「いえ、良いですよ。帝人先輩が呼んでくれるなら、僕、どこでも来ますから」

意識して笑みをつくり、可愛げある後輩の顔をしてみせる。夜に突然呼び出されるくらい、面倒でもなんでもない。それぐらい、目の前の人間には価値があると僕は思っている。

帝人先輩は僕の言葉に、でも忙しかったら別に良いんだよ、と少し困った風な顔をしてみせた。人のことを言えないけれど、同級生よりは幼い顔立ちをしている帝人先輩のそのしぐさは、まるで無害な一般市民のようだった。

「でも、何でプールなんですか?まだ泳ぐには早いですよ。夜ですし」
「みたいだね。冷たいよ」

ばしゃ、と帝人先輩の素足が水面を蹴った。光が波に反射する。濡れた先輩の足に少し、惹かれた。帝人先輩の靴も靴下も、近くに脱ぎ捨ててあった。今もプールの飛び込み台の横に座り、片足を水面に浸している。

僕もそれに倣い、帝人先輩の横にくっつく形で、その場に座った。さすがに水に足をつけようとは思わなかったけれど。

「…で、何なんですか?」
「ああ、うん。そういえば青葉君、金魚鉢ってね、虐待らしいよ」
「は?」
「臨也さんから聞いたんだけど…内側からだと、外が歪んで見えるから、らしいよ?」

臨也、という言葉に内心苛立った。知ってますよ、とはあえて言わず、そうなんですかー、と適当な相槌を打った。次の瞬間、背中を押されプールに突き落とされた。

ばしゃん、という水音は途中で聞こえなくなり、体中を一気に冷たい皮膜が包む。冷たい水に急速に体温を奪われ、ぞわ、とした。空気を求めて、体が勝手に浮かび上がる。水が、包帯に染みて傷口に触れて激痛が走る。僕は水面を突き破った。

「…っ先、輩…?」
「だから、金魚鉢で飼うのはやめようと思って。その方が、青葉君も良いんじゃないかな」

人をプールに突き落としたとは思えないくらい、落ち着いたいつもの声で、帝人先輩が僕に語りかける。僕はプールの中に体を沈めて、足でぱしゃぱしゃと水遊びをする帝人先輩を見上げた。帝人先輩の言いたいことは、理論ではわからないが、直感でわかった。

(僕を飼うつもりなのか)

金魚鉢を買う、という、以前の話を思い出す。観賞魚の話だったはずだ。何がどうズレて彼がこういう結論に至ったのかわからないが、僕の中で一つの仮説が作られる。

(折原臨也…?)

奴の差し金だろうか。僕は暗がりの帝人先輩を見上げながら、彼を懐柔する折原臨也の姿を想像した。けれど、何のためかわからないし、そもそも帝人先輩は彼のそんな奇行には付き合わなさそうだ。

「あ、でも臨也さんには内緒だよ。ペットとか嫌いそうだから」

帝人先輩のその発言で、僕の仮説は否定された。後輩をペットと言い切る、無害な一般市民は足で水を立て、じゃれるように僕に水をかけた。既に濡れきった僕の髪が湿り、ぽたぽたと首筋を水が垂れる。塩素臭い。

僕が何も言わないでプールに浮かんでいると、帝人先輩は水を蹴るのをやめた。水音が収まると、遠くに車のクラクション音が少し聞こえるくらいで、とても静かだ。当然だけど、真夜中の学校だから僕ら以外に人が居ない。呼吸の音すら聞こえそうだ。

「鮫を飼うには、金魚鉢では狭いから」
「だから、プール、ですか?」
「うん、広いし」

25メートルの直線が7コース集まったこのプールは、確かに金魚鉢よりは広いだろう。この人は、塩素の水槽に突き落として、僕に譲歩したつもりなんだろうか。

僕も帝人先輩も水を動かさないため、水面のたゆたいが止まる。僕は暗闇に目が慣れて、僕を包むプールの水の透明さを確認できるようになった。足元に、青色の床が見える。
帝人先輩は、僕をこの青い四角に閉じ込めて、飼うという。でもきっと、それは飼うというより飼い殺す、が近い。

(まぁ、いいか。いつか食らいつけばいいだけの話だ)

僕は、ざぶざぶと水の中を泳いで、帝人先輩の真下まで寄った。もはや冷え切って感覚が鈍り、傷の痛みは忘れていた。単に興奮していただけかもしれないけど。

「気に入りました、先輩」
「本当?良かった…!」

帝人先輩が、ほっとしたように微笑む。笑うと、帝人先輩はさらに幼く見えた。まるで、無害な一般市民のようだ。

「ええ、でも、ちゃんとかまってくださいね。僕、末っ子で寂しがりやなので」

僕も、可愛げのある後輩のような微笑で返す。そして水に浸かった帝人先輩の右の素足を包帯の巻かれた手で取って、そのつま先にキスをした。