魚って溺れるのかな、と帝人先輩が言う。俺はガラスの大水槽から目を離して、帝人先輩を見る。帝人先輩は尋ねてきたくせに自分は水槽を見上げたままだった。水槽の中の窮屈な海を、さまざまな魚が泳ぐ。
平日昼間の水族館には、まばらに入館者が居た。けど、この時間帯はどうやら他所の水槽でショーをやっているらしく、この一枚ガラスの巨大な水槽前のゾーンには俺と帝人先輩くらいしか残っていなかった。
「溺れはしないと思いますよ。そういうからだの作りですし」
俺が答えても、帝人先輩は水槽を見上げたまま「そうなんだ。こんなに深かったら溺れてしまいそうだけど」と言う。帝人先輩、泳げないんですか、と聞くと、そういうわけじゃないけど、とまたこちらに視線はくれないで答えた。
水槽の水深は10メートルはあるかもしれない。視界には収まりきらないくらいの一枚のガラスを隔てて、左右上下に魚が泳ぐ。どの魚も溺れることなく、すいすいと目の前を泳いでいく。
学校を自主早退したという帝人先輩を追って、俺は音楽の授業を抜け出して、この大水槽の前に立っている。俺が隣に来るまで、帝人先輩の周りには誰も居なかった。
皆ここに来れば魚を見てばかりで、平日昼間に制服を着て突っ立っている子供を気に留める人なんていないのだろう。それか、周りの人には帝人先輩は見えていないのかもしれない。
帝人先輩は、空気に溶け込むのがとても上手いように思う。適応力というか、まぁ単に影が薄いのかもしれないけど。大水槽のまん前に立っていても、誰の視線にもひっかからない。さすが無色の集団であるダラーズを作っただけはある。
姿は現さずに、まるで透明人間みたいに振舞ってきたんだ、帝人先輩は。
無色の仲間たちの中で、帝人先輩の姿を見たことのある奴は極めて稀だろう。だから街ですれ違っても、誰も帝人先輩に見向きもしない。
「もしも僕が溺れたら」
帝人先輩が、それだけ呟く。俺はしばらく言葉の続きを待った。けれどいつまで経っても、帝人先輩は言葉を繋げなかった。なので俺は、ひとまずその言葉だけを受け取って考える。
帝人先輩が溺れたら、とりあえずみっともなくもがくんだろうなとは思う。かっこいいもがき方なんてないから、そこはいいんだけど、何となく何の抵抗もなしに溺れることはないのだろう。きっとこの細い腕と足をばたつかせて、水を蹴ろうと、空気を得ようとのたうつんだ。
でもきっと誰も助けてはくれない。だって透明人間だからだ。水に沈めたガラスが不可視化するのと同じように、いくらもがけど波紋を打つだけで、誰も溺れていることに気づいてはくれない。気に留めてはくれない。
無口な魚と同じように、悲鳴も上げられない中で、先輩の姿を水中に見つけるのは困難だ。深くて広い水中ならなおさらだろう。そうして先輩は、誰の目にも留まらないまま沈んでいく。
「青葉君はどうするんだろう」
考えていたところで、ようやく帝人先輩は言葉を繋げた。完成した言葉は、助けてくれるかを間接的に問いているんだ。だけど俺は、というより俺もおそらく、先輩が溺れたことに気づきはしない気がした。
でも、今日みたいに、突如居なくなった先輩を探して追うんだろうとは思う。そうして誰も目もくれない彼を見つけられるのかもしれない。
「どうするって…、何とかしますよ」
「何とかって?」
飛び込んで助けるとか、期待されても困る。いくら帝人先輩が軽いとはいっても、人一人を引き上げるのは大変だし、そもそも水中で先輩を見つけるのが大変なようにも思える。
「例えば、この水槽で先輩が溺れたら、水を全部抜きます」
「全部?」
「はい」
「そしたら、他の魚死ぬよね?」
「そうですね」
それでも、他の方法が思いつかないのだから仕方が無い。帝人先輩は少し考えて、全部台無しになっちゃうね、と困り笑いをした。けれどすぐに、でもまた水を注げばいいかと言って、今日初めて、帝人先輩は俺を見た。